びいどろ時舟 18
「・・・お飯(まんま)だっ!」
驚いた鏡が、歓声を上げた。
「かぴたんさんは、すごかぁ、手妻(手品)が使ゆっの?」
食堂から昼食が届いただけだったのだが、まるで空中から湧いて出たと思ったようだ。錠剤だけでは味気ないので、セマノはたまにこういう食事もとる。
「ああ、湯気ももったいなか・・・白かお飯、吉しゃんも、ここでおあがり。」
吉という名前が、いずれ手に入るはずの遺体の名だと気が付いた。
「ああ、唐人の混血児(あいのこ)の名か。」
うると瞳が濡れ、セマノはシンがいない今、泣かれると困ると一瞬焦ったが、鏡の涙はこぼれなかった。
「吉しゃんは、井戸端で水ばかけられて、凍えて死んでしもうたと。あしは、意気地がなかけん、吉しゃんを助けられんやった。吉しゃんは、何度も堪忍してくれんねって頼んだととに、饅頭ひとつで殺されてしまおったと・・・。」
「まっと、あしが大きくて強ければ良かったとに・・・許してくれんね、吉しゃん・・・お腹が空いて、ほんの少し鬼食い(つまみ食い)したとよ。」
「吉しゃん・・・成仏してくれんね・・・」
鏡は遠い目をして両手を合わせ、吉のために祈った。鏡の祈りの姿に、セマノは哀しみと慈悲のピエタだ思う。
「鏡は、吉のことが好きだったんだね。」
「好き・・・?好いとう・・・?あんね、かぴたんさん。あしには吉しゃんしかおらんとよ。」
「二人きりで抱きおうて、丸山で生きてきたとよ。あしと吉しゃんば、いつか立ち番になって、そいから牛太郎の兄しゃんになって、いっぱいお金儲けばしよう、おなかいっぱい喰ぶうて約束したとに・・・吉しゃん・・・。」
矢継ぎ早に、鏡の口から聞き覚えのない単語が並ぶ。
鏡のいう「牛太郎」と言うのは、ログの検索によると、廓で働く男衆の妓夫太郎のことだ。廓で働く男衆の仕事も、細かな約束事で区切られ多岐にわたっているらしかった。
「牛太郎」の兄しゃんと鏡が憧憬を込めて呼ぶ彼らは、頭に花を挿し、遊女の薄物を羽織るような、遊び人の風体で紅燈の大通りを歩く。いつも時代にも、似た役割の男はいるものだと思う。
楼閣ごとに抱えられ、界隈を歩き甲斐性のない無銭遊興者を取り押さえる。遊女に通常の身体を売る以外の無体を仕掛ける乱暴ものを排除し、度が過ぎた酔漢を鎮圧する。
憧れの妓夫太郎は、粋で姿の良い遊郭を自衛する用心棒のような存在だった。
若いうちから、道楽を重ねて水に馴染んで、「牛太郎」は廓に居つく。
小粋で洒脱な色と喧嘩の達人は男振りも良く、機嫌のいいときには鏡のような境遇の子どもにも、気まぐれに優しかったらしい。
遊郭から一生逃げられない腹を空かせた囚われの子どもには、救いの神に見えることもあっただろう。唯一楼主から多大な権限を受け、廓の中で自由に外へも行き来のできる羽振りの利く妓夫太郎になるのを、鏡と吉は羨望の眼差しを向けて夢見ていたようだった。
お役御免の年増女郎衆(じょろし)の洗濯を山と請け負ったり、寝ついた遊女の看病などの雑用に追われるこの子は、いつか自分が健全な大人になると信じている。
シンの言う通りだと、確率的には大人になるのも稀らしい過酷な状況に置かれても、花街での自立をこの子はあきらめてはいないのだろうか。驚きを込めて、セマノは興味深いサンプルの鏡を見ていた。
この子は、泥の中に生まれながら、汚れていない芯を持つ。少しずつ鏡に惹かれていた。母の睡蓮という名こそ、鏡にはふさわしいのではないかと思う。
ただ・・セマノは忘れている。
雪の中から生まれたような真白い肌を持つ混血児は、当時、免疫力が弱く身体が弱かった。
セマノは、鏡の語る生きた言葉の中から、遊郭の情報を引き出すのに夢中で、側にいながら鏡の身体に起こった異変に気が付いていなかった。
鏡の両頬には、脂汗がたらたらと玉となって滴り落ち、力なく開いた唇は、蒼紫になっている。
「鏡。牛太郎というのは・・・」
妓夫太郎の階級について、話を聞こうとしたとき、やにわにことりと・・・鏡は座っていた長椅子から、崩れて落ちた。
足元に、大切な白い握り飯が、ころころと転がってゆく・・・
「鏡っ!?」
切れ目のない咳が襲い、やがてこみ上げる吐き気に全身が痙攣するように震えた。
ぷっ・・と重ねた手の内に霧の血を吹いて、蒼白の鏡は瞬く間に人事不省に陥った。
意識は完全に消失し、鏡はがくりとセマノの腕の中に頭をたれた。
「鏡!しっかりしろ!」
必死に脈を取り、鏡の名を呼ぶセマノの声だけが、静かな室内に響いた。白く無機質な未来の部屋で、鮮血にまみれた鏡だけが時代がかっていた。
そして・・・セマノは、二度目のこの光景を思い出した。
愛おしい小さなものが、腕の中で息絶えるこの感覚が数世紀を経て、セマノの胸によみがえった。
「ああ・・・。」
空を仰いだセマノは・・・長い思案の末、一つの決心をする。
強い意志を持って踵を返すと、ついに医師セマノは、寝かせた寝台の薄い隠された引き出しを開けた。
Σ( ̄口 ̄*) セマノ:「鏡ーーーーーっ!?」
(-.-、) 鏡:「かぴたんさ・・・くたっ・・・」
。゚(゚´Д`゚)゚。セマノ:「シンーー!鏡が~~~!!」
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