びいどろ時舟 21
それは、鏡の見た夢の波長(パルス)を映像に変換したものだった。
夢の脳波が映し出した海の見えるそこは、丸山ではなく阿蘭陀屋敷の中の風景のようだった。薄ぼんやりとした、夢特有の画像の揺らぎが、現実のものとの区別をつける。
鏡はセマノを親切なカピタンと信じて、切ない夢を見たらしい。
「かぴたんさん。どうぞあしを、捨てんで下さいまっせ。」
頼み事をする鏡が見上げるセマノの髪が、金色の糸のように頼りなく、潮風に弄られていた。かぴたんのセマノは、シンの知る阿蘭陀商館長(かぴたん)の大きなつばを折ったような黒い帽子を被っている。
夢の中の鏡は、ここへ来る前のお引きずりの拵えを着つけたままで、カピタンの膝に縋っていた。現実世界では、決して自分から傍に寄って甘えることなどなかったから、もしかすると鏡は内心そうしたいのかもしれない。
夢は思っていることを、具現化する。
「かぴたんさん、お願いがあると。水月楼の女将さんのことは、あし一人では、どうにもなりまっせんけん。お父しゃまが、お迎えにきてくれるまで、このままどうぞ、お側に置いてくださりまっせ。」
やっと見つけた場所を、手放すまいとしてこんな夢を見たのだろうか。見上げる鏡は哀しそうにセマノを見つめていた。
「かぴたんさんのお名前も、よう知らんとに、あしは本に虫のよかことばいうて、しょんなかけど・・・あそこに帰ると、あしはどがんなっかわからん・・・。こん通り、お願いすっけん、どうぞあしを・・・見捨てんでくださいまっせ・・・」
夢の中でカピタンは、手を合わせて懸命に頼み事をする鏡を、きゅと抱き寄せ優しく告げる。軽々と抱え上げて、膝の上に乗せられた鏡は、とんと胸に頭を預けた。
「心配はいらない。きっと父親に会わせてやるぞ、鏡。それまで、ここにわたしと一緒にいればいい。ここなら、水月楼の女将も無体なことは言うまいぞ。」
「かぴたんさん・・・、ああ、うれしか・・・。」
向ける笑顔に、はらと涙が零れ落ちる。束の間の安堵を胸に、鏡はセマノに抱かれた。
「何もお礼ばできんとに、口ば吸うてくれんね。かぴたんさん・・・。かぴたんさんは、いつっちゃ優しかばい。あしは、かぴたんさんのこと、死ぬごとすいとっと・・・。」
泣きたくなるほど、夢の世界だった。ただ一人の優しくしてくれた男に、鏡が惹かれたのも無理はない。
廓で生まれ育った鏡が、思いを込めて捧げるものは体一つしかない。おずおずと鏡は、かぴたんに震える腕を伸ばした。
無償で優しくしてくれた阿蘭陀商館長が、夢の中でセマノの顔をして、優しく鏡の口を吸った。
頬を染め二人は見つめ合っている。
「これは、現実じゃない!」
シンは無性に苛立っていた。
「いいか?君はかぴたんではないし、鏡は娼婦ではない。はっきり言っておくが、ここで君が鏡に出来る治療は、牡丹の皮と根、朝鮮人参を煎じて飲ませることくらいだ。それ以上のことは禁忌に触れる。」
現実と夢の中で、ここがどういうところか分かっていない鏡の夢は納得できる。だが、訳がわからず見た夢に見入るセマノのこの思考はどうだ。鏡の夢の中で、一緒になって夢を見ている、そんな気がした。
「くちなしの実を、取って来てやろうか!それとも、人参の方が所望なのか!」
肺病の特効薬のない時代に、まことしやかに伝わる「効く」とされた植物の名前をたたきつけるように、いらいらと口にした。
「煎じて飮ませるか、すり下ろして飮ませるか、好きな方を選べばいい。」
セマノは曖昧な視線を向けた。
「分かってるよ・・・いつだって君は正しい。人参を飮ませたって何の効果もない、ぼくの馬鹿げた「のぼせ」にしか効かないって言いたいんだろう・・・?」
互いに緩く、視線を交わした。シンはセマノの気持ちは理解しているつもりだった。それでも、時の管理人として決してそれを許すわけにはいかない。
セマノは頭を抱え悲痛な声をあげた。
「死なせたくないんだ、シン。鏡を、助けたいんだ。頼む!」
「駄目だ。この子はいずれ短命で死ぬのが分かっているからこその、サンプルだ。時空が歪むかもしれない子供を、元の世界に送るわけにはいかない。」
「もう、見たくないんだ・・・。愛おしいものが、腕の中で息絶えるのはもう耐えられない。」
「なら、いっそ戻って、二度と過去に関わらない部署に移動願いを出すんだな!何で、いちいち関わったサンプルに囚われるんだ?許されないと判っているだろう?セマノ、しっかりしたまえ!」
八つ当たりのように口にしたが、これは、ここに鏡を連れて来たシンの台詞ではなかった。自分も、同じようなことをしてしまっている。
だがこれで管理局が、セマノを時舟に乗船させない理由が、はっきりした。
確かに流刑地に送るのは勿体無いほど、セマノの頭脳は優秀だった。
だがその特殊な脳には、欠点がある。刻まれた記憶が、他の者のように新しい物へと簡単に代謝されないのだ。
普通は、過去の事例は薄くなって時と共に流れて忘れ去ってゆく。だが、セマノにとって全ての記憶は、忘却されることなく積み重なってゆくだけのようだ。
薄れない苦悩の過去など、厄介なだけだ。
膨大な思いに押し潰されるように器が砕け散った時、まぎれもなく壊れるのはセマノ自身の精神だろう。
何世紀経ても癒えないセマノの内なる疵が、昨日の傷のように今もたらたらと血を流し続けていたと知り、シンは半ば愕然としている。
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コメント、感想等もお待ちしております。 此花咲耶
夢の脳波が映し出した海の見えるそこは、丸山ではなく阿蘭陀屋敷の中の風景のようだった。薄ぼんやりとした、夢特有の画像の揺らぎが、現実のものとの区別をつける。
鏡はセマノを親切なカピタンと信じて、切ない夢を見たらしい。
「かぴたんさん。どうぞあしを、捨てんで下さいまっせ。」
頼み事をする鏡が見上げるセマノの髪が、金色の糸のように頼りなく、潮風に弄られていた。かぴたんのセマノは、シンの知る阿蘭陀商館長(かぴたん)の大きなつばを折ったような黒い帽子を被っている。
夢の中の鏡は、ここへ来る前のお引きずりの拵えを着つけたままで、カピタンの膝に縋っていた。現実世界では、決して自分から傍に寄って甘えることなどなかったから、もしかすると鏡は内心そうしたいのかもしれない。
夢は思っていることを、具現化する。
「かぴたんさん、お願いがあると。水月楼の女将さんのことは、あし一人では、どうにもなりまっせんけん。お父しゃまが、お迎えにきてくれるまで、このままどうぞ、お側に置いてくださりまっせ。」
やっと見つけた場所を、手放すまいとしてこんな夢を見たのだろうか。見上げる鏡は哀しそうにセマノを見つめていた。
「かぴたんさんのお名前も、よう知らんとに、あしは本に虫のよかことばいうて、しょんなかけど・・・あそこに帰ると、あしはどがんなっかわからん・・・。こん通り、お願いすっけん、どうぞあしを・・・見捨てんでくださいまっせ・・・」
夢の中でカピタンは、手を合わせて懸命に頼み事をする鏡を、きゅと抱き寄せ優しく告げる。軽々と抱え上げて、膝の上に乗せられた鏡は、とんと胸に頭を預けた。
「心配はいらない。きっと父親に会わせてやるぞ、鏡。それまで、ここにわたしと一緒にいればいい。ここなら、水月楼の女将も無体なことは言うまいぞ。」
「かぴたんさん・・・、ああ、うれしか・・・。」
向ける笑顔に、はらと涙が零れ落ちる。束の間の安堵を胸に、鏡はセマノに抱かれた。
「何もお礼ばできんとに、口ば吸うてくれんね。かぴたんさん・・・。かぴたんさんは、いつっちゃ優しかばい。あしは、かぴたんさんのこと、死ぬごとすいとっと・・・。」
泣きたくなるほど、夢の世界だった。ただ一人の優しくしてくれた男に、鏡が惹かれたのも無理はない。
廓で生まれ育った鏡が、思いを込めて捧げるものは体一つしかない。おずおずと鏡は、かぴたんに震える腕を伸ばした。
無償で優しくしてくれた阿蘭陀商館長が、夢の中でセマノの顔をして、優しく鏡の口を吸った。
頬を染め二人は見つめ合っている。
「これは、現実じゃない!」
シンは無性に苛立っていた。
「いいか?君はかぴたんではないし、鏡は娼婦ではない。はっきり言っておくが、ここで君が鏡に出来る治療は、牡丹の皮と根、朝鮮人参を煎じて飲ませることくらいだ。それ以上のことは禁忌に触れる。」
現実と夢の中で、ここがどういうところか分かっていない鏡の夢は納得できる。だが、訳がわからず見た夢に見入るセマノのこの思考はどうだ。鏡の夢の中で、一緒になって夢を見ている、そんな気がした。
「くちなしの実を、取って来てやろうか!それとも、人参の方が所望なのか!」
肺病の特効薬のない時代に、まことしやかに伝わる「効く」とされた植物の名前をたたきつけるように、いらいらと口にした。
「煎じて飮ませるか、すり下ろして飮ませるか、好きな方を選べばいい。」
セマノは曖昧な視線を向けた。
「分かってるよ・・・いつだって君は正しい。人参を飮ませたって何の効果もない、ぼくの馬鹿げた「のぼせ」にしか効かないって言いたいんだろう・・・?」
互いに緩く、視線を交わした。シンはセマノの気持ちは理解しているつもりだった。それでも、時の管理人として決してそれを許すわけにはいかない。
セマノは頭を抱え悲痛な声をあげた。
「死なせたくないんだ、シン。鏡を、助けたいんだ。頼む!」
「駄目だ。この子はいずれ短命で死ぬのが分かっているからこその、サンプルだ。時空が歪むかもしれない子供を、元の世界に送るわけにはいかない。」
「もう、見たくないんだ・・・。愛おしいものが、腕の中で息絶えるのはもう耐えられない。」
「なら、いっそ戻って、二度と過去に関わらない部署に移動願いを出すんだな!何で、いちいち関わったサンプルに囚われるんだ?許されないと判っているだろう?セマノ、しっかりしたまえ!」
八つ当たりのように口にしたが、これは、ここに鏡を連れて来たシンの台詞ではなかった。自分も、同じようなことをしてしまっている。
だがこれで管理局が、セマノを時舟に乗船させない理由が、はっきりした。
確かに流刑地に送るのは勿体無いほど、セマノの頭脳は優秀だった。
だがその特殊な脳には、欠点がある。刻まれた記憶が、他の者のように新しい物へと簡単に代謝されないのだ。
普通は、過去の事例は薄くなって時と共に流れて忘れ去ってゆく。だが、セマノにとって全ての記憶は、忘却されることなく積み重なってゆくだけのようだ。
薄れない苦悩の過去など、厄介なだけだ。
膨大な思いに押し潰されるように器が砕け散った時、まぎれもなく壊れるのはセマノ自身の精神だろう。
何世紀経ても癒えないセマノの内なる疵が、昨日の傷のように今もたらたらと血を流し続けていたと知り、シンは半ば愕然としている。
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