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びいどろ時舟 19 

息を詰めたセマノが、そっと隱された引き出しから何かを手に取り、思いつめた顔で蒼白の鏡を見つめ傍に寄る。
忙しなく短い息が、倒れ込んだ鏡の胸を上下させていた。

「・・・たかが、テュバキュローシス(結核菌)ごときに・・・。」

鏡の生きる時代、労咳と呼ばれたこの死病は、空気感染で罹患し、こんな風に呼吸系統での発症が多かった。
廓で病に倒れた姉さん達を看護する奥の開かずの間は、窓のない空気の淀んだ所で、宙に舞う結核菌を吸う場所でしかない。劣悪な環境だった。
鏡の状態は、このまま放置すれば当然重篤な状態になり、死に至ると想像できた。
肺結核における激しい肺出血とそれによる喀血、胃に溜まった血の吐血による窒息が、横たわる鏡の命を間近に危うくしている・・・。

今、セマノの手の内にあるのは、一本の細い筒型の注射器だった。皮膚に当てるだけで内部に薬液を送る痛みの少ないものだった。
中には、結核治療に使われた最初の抗生物質である微弱なストレプトマイシンよりも、はるかに治療精度の高いα型が入っていた。
この抗生物質は、細胞レベルで病原を駆逐してしまう医学の勝利と言われた進化したものだ。これを鏡に投与した場合、どうなるのか。・・・答えは火を見るより明らかだった。

痛むほどの動悸に耐えながら、セマノは鏡の襟元をくつろげた。
浮いた鎖骨が張っているそこに・・・心臓に近い血管に、直接打ち込めばそれだけで鏡の命は助けられるだろう。

「鏡・・・助けてやる・・・。」

ごくりと、喉が上下した・・・セマノはわかっていた。過去の人間を治療するのは歴史を変える事になる。今度こそ、自分もどうなるか分からない。それでも、セマノは目の前で消えかけた命を救いたいと思った。

『決して、してはならないこと』

過去に干渉する、重大な「禁忌」に、セマノの手が染まろうとしている。

*******

その時。

まるで起ころうとする禁忌を阻害するかのように、ぶんと金属音が響いて移送装置が、そこに形になった。
見覚えのある「びいどろのかめ」が、そこに姿を現した。

「・・あっ!」

人の気配に思わず取り落とした注射器が、入ってきたシンの足元に転がる。拾い上げた物を見てシンが顔色を変えた。

「セマノッ!何をしようとした?」

「な、何も・・・」

視線を外し、学者はいたたまれない風に背中を向けた。

「何もしてない・・・まだ。」

「まだ・・・だと?」

まだ・・・と言うセマノは蒼白だった。
シンにはセマノの取ろうとする行動の、全てが理解できた。

セマノが目の前で人が亡くなるのを阻止しようとしたのは、これが初めてではない。
かなり昔、重大な過失で任務を解かれる前、セマノはシンと同じ時の管理人だったことがある。
その時、セマノは重大な過失を犯した。

18世紀の欧羅巴で起きた革命を追っている最中に、それは起こった。
セマノは塔に幽閉された、幼い囚われの王子を救おうとした事が有った。名前を聞けば、誰もが知っている悲劇の女王が残した、哀れな幼い王太子だった。
革命後、姉と二人肩を寄せて幽閉されて暮らしていたが、王位継承権が彼が生きるのを邪魔した。

閉じ込められた塔から連れ出そうとして、未遂に終わったことと、シンが形跡を速やかに消したことで猶予付きで不問にはなったが、それからセマノは、どんなに望んでも二度と時舟に乗船できなくなった。

歴史に関わろうとする者に、時の管理省は重大な罰を与える。王太子に加えたセマノの行為は過干渉と認められ、歴史を変える恐れがあると判断された。
その結果。王子は記憶を抜かれ、セマノは顔を変えられた。
罰として、セマノには助けられなかった王子を最期まで看取る「医者の顔」を与えられた。
医師でありながら救命の治療も出来ぬまま、見守るしかない己の無力に、煩悶ともがきながら慕って来る愛らしい少年と長い時間を一緒に過ごさなければならなかった。






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