明けない夜の向こう側 6
出かけていた施設長が、ある日、帰宅すると大声で櫂を呼んだ。
「櫂!学校に行けるぞ!」
「え?本当」
「ああ。皆揃って村の小学校に通ってもいいそうだ。校長先生が約束してくれた」
「やったあ!」
学校に通うのは、櫂達の望みだった。
三万人を越える戦争孤児を、そのままにしてはいけないと、政府の教育に携わる者も考え始めていたらしい。
厚生省内に孤児の為の部署が設置され、福祉上の観点からの対策に取り組むことになっていた。
櫂や陸が保護されたように、戦争孤児の多くが、集団保護の対象となり、個人家庭への保護委託、養子縁組の斡旋を進めることが決められた。
だが、国民の多くが貧困の中にあり、政策はほとんど形ばかりで、形骸化されているのも同然だった。
施設長の心づくしのノートと、鉛筆をもって櫂は二歳年下の組へと入った。
ひらがなの読み書きもできなかった陸は、一年生に交じって勉強する。
施設の子供たちは、皆、自分の年よりも下の組に入った。
だが、施設の子供たちの高揚した気持ちは潰されて、すぐにぺしゃんこになる。
地元の子供の親たちが施設の子供を、家でも馬鹿にしているらしく、級友たちの態度ははなから悪かった。
何かが無くなれば、必ず施設の子供が犯人と疑われた。
休み時間になると、陸が泣きながら櫂の所にやってきた。
床掃除をしていた陸は、雑巾バケツの水を頭から掛けられたらしい。
「陸、どうした?」
「にいちゃ……おれのこと、きちがい病院に住んでる野良犬だっていうんだ。臭いから近寄るな、野良犬は勉強なんてしないできちがい病院に帰れって……汚れた水……掛けられた……」
雑巾水は、ぽたぽたと涙と共に足元に溜まりを作った。
施設が元々、戦争に行けないほど重度の精神病の患者を閉じ込めるために作られた場所だった事を、村の子供たちは知っていた。
陸は、水道の所に行き上着を脱がせると洗ってやった。
「陸、いいか?こんなことで負けるな。帰ったら兄ちゃんが勉強を教えてやる。毎日勉強して、早く上の組で勉強できるようになれ。何でも一番になったら、誰も馬鹿にしなくなる。兄ちゃんも一等になる。施設の子だって、やれるってこと、見せてやるんだ、いいな?先生に話をしてくるから、ここで待ってろ。今日はもう帰らせてくれって言ってくるから」
陸は黙って手の甲で目をこすった。
陸の額には、誰かが押さえつけて消し炭で「犬」と書いた跡が、薄く残っていた。
廊下から顔を出した誰かが「ああ、くせぇと思ったら、野良犬が二匹も居やがった」と大声でわめく。
「教室に野良犬がいるから、俺らたまったもんじゃねぇよなぁ。早いとこ、きちがい病院に帰れ!」
毎日が理不尽なことの連続だった。
親がいない。
それが、櫂たち孤児を全てにおいて苦しめた。
施設に帰っても、石鹸なんて高級なものは無く、体を水で洗うしかなかった。
櫂は毎日、どんなに寒くても水をかぶり身体を擦った。
「……つ、つめた……にいちゃ、冷たいよ」
「我慢しろ、陸。臭いのは風呂に入れないからだ。薪を使うのは、週に一回だけだからな。なるべく水をかぶって綺麗にしよう。それに、陸の顔は可愛いんだから、臭いなんて言わせたくないよ」
実際、汚れを落とした陸の顔は、芸者だったという母親に似ているせいか、とても整っていた。さぞかし、すっきりと小股の切れ上がった女だったのだろう。写真も何も残っていないし、陸も空襲の頃の事は、ほとんど覚えていなかった。
自分の顔だけが、母親を思い出す縁(よすが)だった陸は、時々鏡を覗き込んだ。
「おれも、にいちゃと同じにする」
陸も同じように、水をかぶった。
そのせいで、二人は風邪もひかないほど健康になったのかもしれない。
青紫になった唇を震わせて、陸は言う。
「に……にいちゃ、算数を教えて。掛け算の九九、みんな知っているのに、おれだけ知らないんだ。先生が、覚えるようにって紙に書いてくれたけど、あいつら……野良犬に、こんなもの必要ないって破って捨てたんだ……」
「そうか。悔しいな。陸より先に習っただけなのに、知らない陸を馬鹿にするなんて、酷いやつらだ。だけど、おれは負けない。きっと、一番になる。陸も頑張れ。一番になったら誰も馬鹿にしなくなる。いつか野良犬に負けたって、悔しがらせてやったらいいんだ。兄ちゃんと一緒なら頑張れるか?」
櫂の陸を見つめる目は、とても優しい。
「うん。おれ、にいちゃと一緒にがんばる」
「知らないのは恥ずかしい事じゃない。知ればいいだけなんだ。恥ずかしいのは、少しばかり知ってるからって偉そうにするやつの方だ」
二人は施設の他の子も巻き込んで、作業を早く終わらせると、それこそ死に物狂いで毎日何時間も勉強をした。
櫂の胸にある夢が、櫂を支えた。
本日もお読みいただきありがとうございます。
櫂と陸、今日も一生懸命生きています……
火、木、土曜日、更新予定です。よろしくお願いします。
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よろしくお願いします。
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「櫂!学校に行けるぞ!」
「え?本当」
「ああ。皆揃って村の小学校に通ってもいいそうだ。校長先生が約束してくれた」
「やったあ!」
学校に通うのは、櫂達の望みだった。
三万人を越える戦争孤児を、そのままにしてはいけないと、政府の教育に携わる者も考え始めていたらしい。
厚生省内に孤児の為の部署が設置され、福祉上の観点からの対策に取り組むことになっていた。
櫂や陸が保護されたように、戦争孤児の多くが、集団保護の対象となり、個人家庭への保護委託、養子縁組の斡旋を進めることが決められた。
だが、国民の多くが貧困の中にあり、政策はほとんど形ばかりで、形骸化されているのも同然だった。
施設長の心づくしのノートと、鉛筆をもって櫂は二歳年下の組へと入った。
ひらがなの読み書きもできなかった陸は、一年生に交じって勉強する。
施設の子供たちは、皆、自分の年よりも下の組に入った。
だが、施設の子供たちの高揚した気持ちは潰されて、すぐにぺしゃんこになる。
地元の子供の親たちが施設の子供を、家でも馬鹿にしているらしく、級友たちの態度ははなから悪かった。
何かが無くなれば、必ず施設の子供が犯人と疑われた。
休み時間になると、陸が泣きながら櫂の所にやってきた。
床掃除をしていた陸は、雑巾バケツの水を頭から掛けられたらしい。
「陸、どうした?」
「にいちゃ……おれのこと、きちがい病院に住んでる野良犬だっていうんだ。臭いから近寄るな、野良犬は勉強なんてしないできちがい病院に帰れって……汚れた水……掛けられた……」
雑巾水は、ぽたぽたと涙と共に足元に溜まりを作った。
施設が元々、戦争に行けないほど重度の精神病の患者を閉じ込めるために作られた場所だった事を、村の子供たちは知っていた。
陸は、水道の所に行き上着を脱がせると洗ってやった。
「陸、いいか?こんなことで負けるな。帰ったら兄ちゃんが勉強を教えてやる。毎日勉強して、早く上の組で勉強できるようになれ。何でも一番になったら、誰も馬鹿にしなくなる。兄ちゃんも一等になる。施設の子だって、やれるってこと、見せてやるんだ、いいな?先生に話をしてくるから、ここで待ってろ。今日はもう帰らせてくれって言ってくるから」
陸は黙って手の甲で目をこすった。
陸の額には、誰かが押さえつけて消し炭で「犬」と書いた跡が、薄く残っていた。
廊下から顔を出した誰かが「ああ、くせぇと思ったら、野良犬が二匹も居やがった」と大声でわめく。
「教室に野良犬がいるから、俺らたまったもんじゃねぇよなぁ。早いとこ、きちがい病院に帰れ!」
毎日が理不尽なことの連続だった。
親がいない。
それが、櫂たち孤児を全てにおいて苦しめた。
施設に帰っても、石鹸なんて高級なものは無く、体を水で洗うしかなかった。
櫂は毎日、どんなに寒くても水をかぶり身体を擦った。
「……つ、つめた……にいちゃ、冷たいよ」
「我慢しろ、陸。臭いのは風呂に入れないからだ。薪を使うのは、週に一回だけだからな。なるべく水をかぶって綺麗にしよう。それに、陸の顔は可愛いんだから、臭いなんて言わせたくないよ」
実際、汚れを落とした陸の顔は、芸者だったという母親に似ているせいか、とても整っていた。さぞかし、すっきりと小股の切れ上がった女だったのだろう。写真も何も残っていないし、陸も空襲の頃の事は、ほとんど覚えていなかった。
自分の顔だけが、母親を思い出す縁(よすが)だった陸は、時々鏡を覗き込んだ。
「おれも、にいちゃと同じにする」
陸も同じように、水をかぶった。
そのせいで、二人は風邪もひかないほど健康になったのかもしれない。
青紫になった唇を震わせて、陸は言う。
「に……にいちゃ、算数を教えて。掛け算の九九、みんな知っているのに、おれだけ知らないんだ。先生が、覚えるようにって紙に書いてくれたけど、あいつら……野良犬に、こんなもの必要ないって破って捨てたんだ……」
「そうか。悔しいな。陸より先に習っただけなのに、知らない陸を馬鹿にするなんて、酷いやつらだ。だけど、おれは負けない。きっと、一番になる。陸も頑張れ。一番になったら誰も馬鹿にしなくなる。いつか野良犬に負けたって、悔しがらせてやったらいいんだ。兄ちゃんと一緒なら頑張れるか?」
櫂の陸を見つめる目は、とても優しい。
「うん。おれ、にいちゃと一緒にがんばる」
「知らないのは恥ずかしい事じゃない。知ればいいだけなんだ。恥ずかしいのは、少しばかり知ってるからって偉そうにするやつの方だ」
二人は施設の他の子も巻き込んで、作業を早く終わらせると、それこそ死に物狂いで毎日何時間も勉強をした。
櫂の胸にある夢が、櫂を支えた。
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