流れる雲の果て……25 【最終話】
大勢で食べる食事も、これで最後だと皆わかっていたが、誰も何も言わない。慌ただしくも和やかな風景だった。
「大ちゃん。早くしないと学校遅れるよ。ほら、小学生達はもう出発したよ。」
朝に弱い大二郎は汁椀を持ったまま、白河夜船でこっくりこっくりと舟をこいでいる。
「大ちゃん。夕べも遅かったの?」
「う……ん。帰ってから、一時間くらい要返しの練習した……から。」
「頑張ってるね。いつかきっと自分の一座を背負って立つんだよ。」
「……ん……美千緒さん……。」
羽織った浴衣をぺらとめくって、美千緒はやっぱり……と、変わらぬ台詞を口にする。
「大ちゃん。学校行くのに、ぱんつは履かなきゃ駄目だよ。ほら、足上げて……!」
不意に、大二郎は美千緒の首に掻きついた。
「美千緒さんっ。」
「大ちゃん。」
「忘れないから。おれ、美千緒さんの事大好きだった。」
美千緒も真顔になった。
「大ちゃん……色々、お世話になりました。この劇団に拾ってもらって、人生を投げないでもう一度生きる気になったよ。本当にありがとう。どんなにお礼を言っても足りないくらいだ。」
*****
揃った座員に深々と頭を下げ、美千緒と聡は劇団を後にする。
素肌の肩に浴衣を引っかけただけの大二郎が、大きく手を振り叫んだ。
「美千緒さーーん!!」
「おれが看板背負ったら、きっと見に来て!」
「わかった!どこに居てもきっと来る。でっかい花を贈るから!」
「約束だよ~!おれ、一番値段が張るけど、紅い薔薇の花が好きだから~!」
「わかった!聡に買ってもらうから!」
「待ってるからね~!」
笑い合って、出来ない約束を交わした。
美千緒に残された時間は、それほど多くない。
互いに見えなくなるまで手を振って、一人になって大二郎が思わず見上げた空に、一朶(いちだ)の雲が流れていた。
上を向いていないと、涙がとめどなく溢れてきそうだった。
「さよなら、美千緒さん。」
*****
それから七年後。
柏木醍醐はテレビ、映画を中心に活動を移し、劇団の大方の公演は二十歳を迎えた大二郎が主役を張るようになっていた。
「なぁ、羽鳥。そろそろ劇団の看板を、大二郎に譲ってもいいかなと思ってるんだが、お前はどう思う?」
既に実質上は、劇団は大二郎が背負ったも同然になっている。醍醐は空き時間になるべく舞台に立つようにしていたが、さすがに両方こなすには無理があった。既に来年の大河ドラマの出演も決まっている多忙な身体だった。
親子共演の話もいくつかあったが、大二郎は大切な劇団をおろそかにしたくないと言い張り、拠点こそ東京に移したものの大衆演劇の舞台に立ち続けた。
「いっそ柏木大二郎座長公演と銘打って、派手に興行を打ち上げますか?そろそろ、一座の常打ち小屋を持ってもいい頃かもしれません。」
「自前の小屋か、それはいいな。手配をよろしく頼む。御贔屓さんへのあいさつ回りは、全部おれが顔を出すから、スケジュール空けておいてくれ。」
「わかりました。当てが有るので東京近郊で場所探しから始めます。忙しくなりますね。大二郎にももう固定ファンが付いていますから、ファンミーティングも計画します。出版社からきていた写真集の話も、同時期に発表で良いですね。良い宣伝になります。……醍醐さん。」
二人は同じことを考えていた。
「ああ。楓と、先生に……大二郎の晴れ姿を、一目見せてやりたかったなぁ。」
「はい。本当に。」
*****
松井聡は、新生柏木劇団の興行案内状を受け取ると、今は亡き恋人との約束を守る為、尾関美千緒の名で大きなスタンド花を注文した。
届けられるのは、紅い薔薇だけの大きな祝い花。
最後まで、美千緒は大二郎の事を気にかけていた。
「……大ちゃんが看板背負ったら、うんと大きな花を贈ってね……。ぼくはずっと……柏木大二郎のファンだって伝えて。」
「わかった。美千緒の名前で、大二郎くんが驚くほど立派な花を贈るよ。」
「それ……取って。大ちゃんの写真……それが始まりだったんだよ……」
寝台の脇に、卓上型の大二郎の月暦が立ててある。
取り上げて胸に抱くと、ふぅ……と、恋人の腕の中で美千緒は大きな息を吐いた。
「少しだけ……眠るね……バイバイ……聡。」
「ゆっくりおやすみ。美千緒。」
満ち足りた顔で布団に身を沈めると、尾関美千緒は小さく手を振って、恋人に別れを告げた。
ぱさ……
細くなった美千緒の手から滑り落ちた写真は、いつか涙ぐんで見つめた舞台の二人だった。
―流れる雲の果て……(完)―
長らくお読みいただきありがとうございました。
拍手もポチもありがとうございます。とても励みになりました。
いつも煮詰まりながら話を進める中、読んでくださっている方の姿を感じられて、日々頑張ろうと思えました。
バドエンでしたが、美千緒は安らかだったと思います。
また、新しいお話でお目にかかりたいと思います。 此花咲耶
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