金銀童話・王の金糸雀(二部) 14
東の国の商人が、大きなぜんまいを差し込もうとしたとき、ぜんまいの入る穴からとろりと、錆で濁った機械油が溢れ出した。
そして、がくがくとアレッシオ人形は上顎を鳴らして、数回はずれた音を吐き出すと動かなくなったのだ。
「アレッシオ!」
お后さまは、半狂乱のようになってオートマタを揺さぶったが、人形はもうすっかりただの廃品となって、長い睫毛も瞬きもせず、ぴくりとも動かなかった。
膝の上からずり落ちるとき、頭に被せたかつらが外れ、むき出しの内部の精密な器械がお后さまの目に触れた。
「これは、何?」
「アレッシオは、どこなの・・・?」
「わたくしの、アレッシオはどうしたの?」
光のない黒い瞳が、肩で大きく息をつく金糸雀に向けられた。
見据えた瞳が金糸雀の姿を認め、きらと煌いた。
「金糸雀・・・アナスタシオ王子・・・。」
「そうよ・・・おまえの父王が、アレッシオを殺したのよ。」
「おまえは、北の塔から逃げ出したのね?」
「わたくしが、こんなに大切にしているのに。」
狂気は、意識と時間を混濁させ、お后さまは北の塔から連れ出された金糸雀を責めているのだった。
「何故、逃げたりしたの・・・?」
金糸雀は、お后さまの溢れる情に溺れそうになっていた。
「わたくしの、可愛い小さな金糸雀。」
「お后さま、あぁ・・・どうか、お許し下さい。」
お妃さまの枯れた枝のように伸びた醜い尖った爪が、許しを請う金糸雀の喉元にかかった。
両の手の親指が、滑らかな喉元にぐっと深く押し付けられて、金糸雀の銀の髪が大理石の床に広がった。
「あぁ・・・おきさ・・・ま・・・どう・・・か・・」
気道は圧迫され、意識は遠のいてゆく。
やっと、許される日が来たと、消え行く意識の中で金糸雀は思った。
だが、唐突にぱたりと床に崩れ落ちたのは、お后さまの方だった。
黒衣の胸から王さまの刀の切っ先が覗き、金糸雀は思わずお后さまの上半身を抱き上げた。
「・・・ああぁっ!・・・何という・・・」
「王さまっ!どうして?どうして・・・?」
お妃さまの腕が、金糸雀の腕に伸びる。
「いいのよ・・・おまえのせい・・・などではないわ・・・」
いつか光を取り戻しかけたとき、金糸雀に呟いた言葉をもう一度繰り返し、お后さまは微笑みかけた。
「いいえ。罰を受けるのは、お后さまではなくわたくしの方です!」
金糸雀は、背後から剣を引き抜いた王さまに向かって、叫んだ。
お后さまの向けた空ろな視線の先に、揺り椅子に乗せられた変わり果てたアレッシオ殿下の姿があった。
「アレッシオはね・・・とても寂しがり屋なの。」
「一人で逝かせることは、出来ないわ・・・」
すみれ色の目をした金糸雀は、白いローブが鮮血に染まるのも構わないで強くお后さまを抱きしめたのだった。
死ななくてはならないのは、自分のほうなのにと金糸雀は嘆いた。
濡れた頬に、今や老婆のようにやつれた指が伸びる。
「なりは大きくても、そばに一緒に居てあげないといけないのよ。」
「あなたは、王さまを・・・一人にしないであげて・・・ね。」
「后・・・」
王さまは、金糸雀の腕の中からお后さまを受け取ると、心からの愛を誓って抱擁を交わした。
寂しい、寂しいお后さまは、喪に服したまま金糸雀の腕の中で儚くなった。
大好きな緑の森の国の王妃の姿で、愛するアレッシオ殿下の下へと、やっと旅立つことが出来たのだった。
その黒衣の美貌の婦人の死に顔は、とてもやすらかだった。
悲しみに震える金糸雀に、王さまが告げた。
「そなたは、もうここに居てはならない。」
息を呑む金糸雀に、冷たい氷の横顔を向けて、王さまは信じられない蔑みの言葉を続けた。
「美しく着飾った、剥製の去勢鶏よ。」
「自分の住処に帰り、そなたは死ぬまで歌うが良い。」
「余はナポリやヴェネツィアの貴族のように、髭の生えない男娼を側に置き、愛でるような酔狂はせぬ。」
金糸雀はすみれ色の瞳を見開いて、信じられない思いで、自分を引き裂く恐ろしい言葉を聞いた。
「王・・・さま・・・?」
「余は傍らに、カストラートをはべらせる気はない。」
足元から何かが崩れ落ちてゆく気がして、まともに立っていられなかった。
「しっかりしろ、金糸雀。王さまの言葉は決して本意ではない。」
「再びこの国が、戦火に呑まれることになるかもしれないのだ。そなたを守る為だ。」
傍に駆け寄り告げた忠実な司令官の慰めの真実は、もう金糸雀の耳に届かなかった。
王さまの言葉に傷ついて、今すぐその場に消え去りたいばかりだった。
それでも、金糸雀はどうしてもこれまでの気持を伝えたいと思い、王さまに向かって懸命に話しかけたのだった。
「・・・わたくしが見る一番幸福な夢は・・・いつも、王さまと共に行軍したあの日でした。」
「積み上げた薪が燃える中、王さまのマントの中で眠った野営の夜を覚えています。」
「・・・狼の遠吠えが怖くて、子どもだったわたくしは王さまの・・・・」
向き直った王さまが、酷薄な目でじっと金糸雀を見つめ、その先を遮った。
「饒舌(おしゃべり)な、金糸雀(カナリア)よ・・・。」
「全ての歌劇に、幕はおりるのだ。」
天使の領域に足を入れたカストラートに、もうこれ以上紡ぐ言葉はなかった。
お后さまの血を吸って、紅黒く変色しかかった冷たいローブの裾を優雅に持ち上げて、金糸雀は銀色のカストラート・ミケーレとして最上の終幕の挨拶をした。
王さまの望むとおり、最後の幕は厳かに閉じられた。
たった一つ、銀色のカストラート、ミケーレには帰る場所があったが、今は来たときと同じように何も持たず悲嘆にくれながら緑の森の城を後にしたのだった。
余りの悲しみに、金糸雀には他のことは何も考えられなかった。
王さまの、隠された真実も・・・・
何も言わず控えていた王さまの忠実な司令官が、よろめきながら退出する銀色のカストラートを、そっと背後から自分のマントで優しく包んだ。
この上なく丁重に馬車まで見送ると、御者に音楽院の住所を告げ、そのまま城に帰る必要はないと言って、金貨を数枚渡した。
そして自らは急いで、王さまのお召しになる甲冑の支度をした。
「あれで、よろしかったのですか?」
王さまの気持を知る、忠実な家臣は王さまの横顔に問いかけた。
「失うのは、后だけで良い・・・」
遠くから、馬のいななきや槍の切っ先の震える音が聞こえてくるようだ。
教皇の軍隊がついに国境を越えて、王さまを裁判にかけるために進軍してきたのだった。
「もう、味方の兵を一人も殺してはならぬ。」
王さまは告げ忠実な司令官だけを連れて、教皇軍へと投降した。
放逐された金糸雀だけが、自分がいなくなった後、緑の森の国に起こったことを何も知らなかった。
馬車は、たくさんの金貨を貰った御者の手で、速やかに音楽院の前へと横付けされたのだった。
お后さまのいうとおり、金糸雀は王さまを一人にするべきではなかった。
金糸雀が自分だけの悲しみに、胸を痛めている頃、大勢の人々が、民衆法廷につめかけ王さまを吊るし上げようとしていたのだ。
多くの罵声を浴びながら、高貴な佇まいで王さまは死を覚悟し、ご自分の運命を見据えていた。
壇上に異端審問官が上り、裁判が始まろうとしていた。
金銀童話・王の金糸雀(二部)―完―
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そして、がくがくとアレッシオ人形は上顎を鳴らして、数回はずれた音を吐き出すと動かなくなったのだ。
「アレッシオ!」
お后さまは、半狂乱のようになってオートマタを揺さぶったが、人形はもうすっかりただの廃品となって、長い睫毛も瞬きもせず、ぴくりとも動かなかった。
膝の上からずり落ちるとき、頭に被せたかつらが外れ、むき出しの内部の精密な器械がお后さまの目に触れた。
「これは、何?」
「アレッシオは、どこなの・・・?」
「わたくしの、アレッシオはどうしたの?」
光のない黒い瞳が、肩で大きく息をつく金糸雀に向けられた。
見据えた瞳が金糸雀の姿を認め、きらと煌いた。
「金糸雀・・・アナスタシオ王子・・・。」
「そうよ・・・おまえの父王が、アレッシオを殺したのよ。」
「おまえは、北の塔から逃げ出したのね?」
「わたくしが、こんなに大切にしているのに。」
狂気は、意識と時間を混濁させ、お后さまは北の塔から連れ出された金糸雀を責めているのだった。
「何故、逃げたりしたの・・・?」
金糸雀は、お后さまの溢れる情に溺れそうになっていた。
「わたくしの、可愛い小さな金糸雀。」
「お后さま、あぁ・・・どうか、お許し下さい。」
お妃さまの枯れた枝のように伸びた醜い尖った爪が、許しを請う金糸雀の喉元にかかった。
両の手の親指が、滑らかな喉元にぐっと深く押し付けられて、金糸雀の銀の髪が大理石の床に広がった。
「あぁ・・・おきさ・・・ま・・・どう・・・か・・」
気道は圧迫され、意識は遠のいてゆく。
やっと、許される日が来たと、消え行く意識の中で金糸雀は思った。
だが、唐突にぱたりと床に崩れ落ちたのは、お后さまの方だった。
黒衣の胸から王さまの刀の切っ先が覗き、金糸雀は思わずお后さまの上半身を抱き上げた。
「・・・ああぁっ!・・・何という・・・」
「王さまっ!どうして?どうして・・・?」
お妃さまの腕が、金糸雀の腕に伸びる。
「いいのよ・・・おまえのせい・・・などではないわ・・・」
いつか光を取り戻しかけたとき、金糸雀に呟いた言葉をもう一度繰り返し、お后さまは微笑みかけた。
「いいえ。罰を受けるのは、お后さまではなくわたくしの方です!」
金糸雀は、背後から剣を引き抜いた王さまに向かって、叫んだ。
お后さまの向けた空ろな視線の先に、揺り椅子に乗せられた変わり果てたアレッシオ殿下の姿があった。
「アレッシオはね・・・とても寂しがり屋なの。」
「一人で逝かせることは、出来ないわ・・・」
すみれ色の目をした金糸雀は、白いローブが鮮血に染まるのも構わないで強くお后さまを抱きしめたのだった。
死ななくてはならないのは、自分のほうなのにと金糸雀は嘆いた。
濡れた頬に、今や老婆のようにやつれた指が伸びる。
「なりは大きくても、そばに一緒に居てあげないといけないのよ。」
「あなたは、王さまを・・・一人にしないであげて・・・ね。」
「后・・・」
王さまは、金糸雀の腕の中からお后さまを受け取ると、心からの愛を誓って抱擁を交わした。
寂しい、寂しいお后さまは、喪に服したまま金糸雀の腕の中で儚くなった。
大好きな緑の森の国の王妃の姿で、愛するアレッシオ殿下の下へと、やっと旅立つことが出来たのだった。
その黒衣の美貌の婦人の死に顔は、とてもやすらかだった。
悲しみに震える金糸雀に、王さまが告げた。
「そなたは、もうここに居てはならない。」
息を呑む金糸雀に、冷たい氷の横顔を向けて、王さまは信じられない蔑みの言葉を続けた。
「美しく着飾った、剥製の去勢鶏よ。」
「自分の住処に帰り、そなたは死ぬまで歌うが良い。」
「余はナポリやヴェネツィアの貴族のように、髭の生えない男娼を側に置き、愛でるような酔狂はせぬ。」
金糸雀はすみれ色の瞳を見開いて、信じられない思いで、自分を引き裂く恐ろしい言葉を聞いた。
「王・・・さま・・・?」
「余は傍らに、カストラートをはべらせる気はない。」
足元から何かが崩れ落ちてゆく気がして、まともに立っていられなかった。
「しっかりしろ、金糸雀。王さまの言葉は決して本意ではない。」
「再びこの国が、戦火に呑まれることになるかもしれないのだ。そなたを守る為だ。」
傍に駆け寄り告げた忠実な司令官の慰めの真実は、もう金糸雀の耳に届かなかった。
王さまの言葉に傷ついて、今すぐその場に消え去りたいばかりだった。
それでも、金糸雀はどうしてもこれまでの気持を伝えたいと思い、王さまに向かって懸命に話しかけたのだった。
「・・・わたくしが見る一番幸福な夢は・・・いつも、王さまと共に行軍したあの日でした。」
「積み上げた薪が燃える中、王さまのマントの中で眠った野営の夜を覚えています。」
「・・・狼の遠吠えが怖くて、子どもだったわたくしは王さまの・・・・」
向き直った王さまが、酷薄な目でじっと金糸雀を見つめ、その先を遮った。
「饒舌(おしゃべり)な、金糸雀(カナリア)よ・・・。」
「全ての歌劇に、幕はおりるのだ。」
天使の領域に足を入れたカストラートに、もうこれ以上紡ぐ言葉はなかった。
お后さまの血を吸って、紅黒く変色しかかった冷たいローブの裾を優雅に持ち上げて、金糸雀は銀色のカストラート・ミケーレとして最上の終幕の挨拶をした。
王さまの望むとおり、最後の幕は厳かに閉じられた。
たった一つ、銀色のカストラート、ミケーレには帰る場所があったが、今は来たときと同じように何も持たず悲嘆にくれながら緑の森の城を後にしたのだった。
余りの悲しみに、金糸雀には他のことは何も考えられなかった。
王さまの、隠された真実も・・・・
何も言わず控えていた王さまの忠実な司令官が、よろめきながら退出する銀色のカストラートを、そっと背後から自分のマントで優しく包んだ。
この上なく丁重に馬車まで見送ると、御者に音楽院の住所を告げ、そのまま城に帰る必要はないと言って、金貨を数枚渡した。
そして自らは急いで、王さまのお召しになる甲冑の支度をした。
「あれで、よろしかったのですか?」
王さまの気持を知る、忠実な家臣は王さまの横顔に問いかけた。
「失うのは、后だけで良い・・・」
遠くから、馬のいななきや槍の切っ先の震える音が聞こえてくるようだ。
教皇の軍隊がついに国境を越えて、王さまを裁判にかけるために進軍してきたのだった。
「もう、味方の兵を一人も殺してはならぬ。」
王さまは告げ忠実な司令官だけを連れて、教皇軍へと投降した。
放逐された金糸雀だけが、自分がいなくなった後、緑の森の国に起こったことを何も知らなかった。
馬車は、たくさんの金貨を貰った御者の手で、速やかに音楽院の前へと横付けされたのだった。
お后さまのいうとおり、金糸雀は王さまを一人にするべきではなかった。
金糸雀が自分だけの悲しみに、胸を痛めている頃、大勢の人々が、民衆法廷につめかけ王さまを吊るし上げようとしていたのだ。
多くの罵声を浴びながら、高貴な佇まいで王さまは死を覚悟し、ご自分の運命を見据えていた。
壇上に異端審問官が上り、裁判が始まろうとしていた。
金銀童話・王の金糸雀(二部)―完―
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