淡雪の如く 6
一方、不満を零した良太郎は、彼等のことを何も知らなかった。
大久保是道は周囲から如菩薩といわれるだけあって、外面は確かに気高く柔和な面差しを持っている。
だが、実は幼少時の出来事が原因で、内面には深い闇が巣食っていた。精神の均衡を保つために本心を表に出さない是道の昏(くら)い心情は、国表でも詩音以外誰も知らなかった。
*****
「もう、休む。」
「そうですね。色々ありましたから……。足は痛みませんか?」
「……ん。」
大久保是道はいつもそうしてきたように、眠る前、自然に詩音と肌を合わせていた。
何もわからなかった幼い頃からこれまで、片時も離れることなく忠実な番犬のように、常に詩音は眠りに落ちる是道の傍にいた。
大久保家の庭師の息子だった詩音は、はじめて是道に出会った日のことを覚えている。
誰もが一目で夢中になり、愛さずにはいられない可愛らしい是道は、詩音が知る限りいつも植え込みの陰で隠れて泣いていた。泣いている是道を見つけるたび、詩音は一緒に膝を抱え傍に坐った。それは、二人きりの秘密だった。
5歳で本家に引き取られた是道は、見初められて側室になった美貌の母親にそっくりで、つねに気位の高い義母を苛立たせた。なさぬ仲の義母に散々に苛められていた是道は、元服の祝いは何がいいかと父に問われ、「詩音を、是道の小姓に下さい。」と願いを口にした。
県令は懐かなかった息子の初めて頼みに上機嫌で、庭先で剪定に励んでいた詩音を傍に呼んだ。
「さあ、どうするね?是道は詩音が欲しいそうだよ。この子が何かをねだったのは、この家に来て初めてなんだ。傍にいてやってくれるかい?」
「殿さま。詩音も若さまのお傍にいたいです。ずっとご一緒します。」
「そうか。だったら今日から庭師はやめて、是道の傍にいなさい。学校にも行かせてやろう、共にしっかり学びなさい。」
「父上。ありがとうございます。」
気まぐれな県令の言葉に、是道は初めて笑顔を浮かべると袖に縋り、それは父をかなり上機嫌にした。
それから詩音はずっと、是道の傍で生きてきた。互いに唯一無二の存在として、血のつながらない兄弟のように……。
強い風が窓ガラスを、びりびりと震わせた。
「桜が散ってしまう……。ね、詩音のここ、花弁と同じ色だ。」
くすくすと笑う是道の白い指が、粟立つ詩音の剥き出しの二の腕から首筋へと、吸い付くように滑ってゆく。
詩音の胸をゆっくりと撫でていた指がふと止まり、紅い唇を寄せると小柱のような突起をカリリ…と噛んで、思いついた難題を上気した頬で告げた。
「詩音。あれを、側に置く。」
「若さま……それは……。」
「やっと見つけたんだもの。決めた。そうしておくれね。」
詩音の逡巡(ためらい)など、何の障りにもならなかった。
「若さま。ここは、お屋敷ではありません。それにあの方は、若さまの事を覚えていらっしゃらないようでした。若さまのお傍には詩音がずっとおります……。」
伸ばした腕が振り払われた。
「うるさい。明日の朝、迎えに来るように伝え置け。」
希望に溢れた学び舎で、良太郎と詩音の信じられない受難の日々が始まった。
どこか精神に狂疾性を抱えた是道の扱いには慣れていた詩音だったが、相手が悪かった。詩音は怒らせてしまった佐藤良太郎の、横顔を思い浮かべた。
「ああ……どうしましょう……。思わず、失礼なことを言ってしまった。あの方は、うんと言って下さるでしょうか……。」
「……若さま。詩音がお傍にいるだけではだめなのですか……?若さまとあの方では、まるで住む世界が違いますのに……。」
詩音の嘆きを気にすることもなく、大久保是道はそれ以上詩音に何もせず胸に頭を預け、やがて静かにすぅ…と、寝息を立てていた。
その顔は穢れを知らない赤子のように、安らかだった。
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コメント、感想等もお待ちしております。 此花咲耶
大久保是道は周囲から如菩薩といわれるだけあって、外面は確かに気高く柔和な面差しを持っている。
だが、実は幼少時の出来事が原因で、内面には深い闇が巣食っていた。精神の均衡を保つために本心を表に出さない是道の昏(くら)い心情は、国表でも詩音以外誰も知らなかった。
*****
「もう、休む。」
「そうですね。色々ありましたから……。足は痛みませんか?」
「……ん。」
大久保是道はいつもそうしてきたように、眠る前、自然に詩音と肌を合わせていた。
何もわからなかった幼い頃からこれまで、片時も離れることなく忠実な番犬のように、常に詩音は眠りに落ちる是道の傍にいた。
大久保家の庭師の息子だった詩音は、はじめて是道に出会った日のことを覚えている。
誰もが一目で夢中になり、愛さずにはいられない可愛らしい是道は、詩音が知る限りいつも植え込みの陰で隠れて泣いていた。泣いている是道を見つけるたび、詩音は一緒に膝を抱え傍に坐った。それは、二人きりの秘密だった。
5歳で本家に引き取られた是道は、見初められて側室になった美貌の母親にそっくりで、つねに気位の高い義母を苛立たせた。なさぬ仲の義母に散々に苛められていた是道は、元服の祝いは何がいいかと父に問われ、「詩音を、是道の小姓に下さい。」と願いを口にした。
県令は懐かなかった息子の初めて頼みに上機嫌で、庭先で剪定に励んでいた詩音を傍に呼んだ。
「さあ、どうするね?是道は詩音が欲しいそうだよ。この子が何かをねだったのは、この家に来て初めてなんだ。傍にいてやってくれるかい?」
「殿さま。詩音も若さまのお傍にいたいです。ずっとご一緒します。」
「そうか。だったら今日から庭師はやめて、是道の傍にいなさい。学校にも行かせてやろう、共にしっかり学びなさい。」
「父上。ありがとうございます。」
気まぐれな県令の言葉に、是道は初めて笑顔を浮かべると袖に縋り、それは父をかなり上機嫌にした。
それから詩音はずっと、是道の傍で生きてきた。互いに唯一無二の存在として、血のつながらない兄弟のように……。
強い風が窓ガラスを、びりびりと震わせた。
「桜が散ってしまう……。ね、詩音のここ、花弁と同じ色だ。」
くすくすと笑う是道の白い指が、粟立つ詩音の剥き出しの二の腕から首筋へと、吸い付くように滑ってゆく。
詩音の胸をゆっくりと撫でていた指がふと止まり、紅い唇を寄せると小柱のような突起をカリリ…と噛んで、思いついた難題を上気した頬で告げた。
「詩音。あれを、側に置く。」
「若さま……それは……。」
「やっと見つけたんだもの。決めた。そうしておくれね。」
詩音の逡巡(ためらい)など、何の障りにもならなかった。
「若さま。ここは、お屋敷ではありません。それにあの方は、若さまの事を覚えていらっしゃらないようでした。若さまのお傍には詩音がずっとおります……。」
伸ばした腕が振り払われた。
「うるさい。明日の朝、迎えに来るように伝え置け。」
希望に溢れた学び舎で、良太郎と詩音の信じられない受難の日々が始まった。
どこか精神に狂疾性を抱えた是道の扱いには慣れていた詩音だったが、相手が悪かった。詩音は怒らせてしまった佐藤良太郎の、横顔を思い浮かべた。
「ああ……どうしましょう……。思わず、失礼なことを言ってしまった。あの方は、うんと言って下さるでしょうか……。」
「……若さま。詩音がお傍にいるだけではだめなのですか……?若さまとあの方では、まるで住む世界が違いますのに……。」
詩音の嘆きを気にすることもなく、大久保是道はそれ以上詩音に何もせず胸に頭を預け、やがて静かにすぅ…と、寝息を立てていた。
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