淡雪の如く 9
入学式当日の朝。
同室の木羽は母の手縫いの筒袖を着て、良太郎は新品のテーラードに袖を通した。
互いに少し、くすぐったい一張羅だった。
軽く扉を叩く音に、誰かが訪ねて来たのに、気付く。
「誰だろう……?」
同じ階に、部屋は7つもあったから、新入生の誰かが挨拶に来たのだろうと思った。
「おはようございます。佐藤さま。昨日は大変お世話になりました。」
「白鶴……内藤君。」
深々とお辞儀する白い小さな詩音の顔を見て、昨夜存在を無視されたのを思い出して、多少声が冷ややかになる。
「……もうすぐ式の時間だろう?御覧の通り、僕らはまだ着替えの最中なんだ、用件は手短に頼む。」
雛には希な詩音の貌を、初めて見た木羽が驚いて息を呑む中、衣服の汚れるのも構わず、詩音はその場で膝をつき良太郎に向かい平伏した。
「どうか、お願いします。このとおりです、佐藤さま。」
木羽が何事だと、床に伏した詩音の肩口を掴んで引っ張りあげた。
「妙な真似は、止めたまえ。同級生だろう。」
鼻白んだ良太郎もそっけなく、責めた。
「なんのつもりか知らないけれど、ぼくにはそんな大袈裟に頭を下げられる覚えがない。君が夕べの失敬な態度を反省しているというのなら、謹んで詫びは受けるけど。」
「あっ……」
顔を上げた詩音の目元には、羞恥の朱が走っていた。
良太郎に向けて、きっと玲瓏な貌を向けた。
「……昨夜のご無礼の段は、何とぞ……ご容赦なされてくださいませ。」
あまりに感情の無い謝罪に、良太郎は思わず、なんだそれは……と、噴いた。良太郎は、元々狭量な男ではなかったし、級友ともめるのも嫌だった。
これから少なくとも七年間は、共に同級生として暮らすのだ。
「その時代錯誤な物言いを止めて、普通に話してくれるなら、頼みごとを聞いてもいい。」
「わたくし、時代……錯誤……なのでしょうか?」
「え?気付いていなかったのか?何とぞなんて、今時分誰も使わんぞ。その物言いは、まるで歌舞伎の市川団……」
詩音の頬が軽く引きつったのを認めて、木羽が絡むのはいいかげんにしろと目配せをした。
「あの……若さまが、昨日の靴擦れがとても痛むそうなのです。」
「ああ、あれか。酷かったからな。」
良太郎は、大久保是道の酷い靴擦れを思いだした。
「わたくしの手は借りたくないと、若さまが申しますので、出来ましたら佐藤さまのお手をお貸しいただけたらと思いお願いに参りました。……あの……若さまは佐藤さまの手際の良さにいたく感服されまして、佐藤さまの手ならお借りしても良いと申しますので……。」
何も知らない木羽に、短く昨日の靴擦れの話を伝え、それならば手を貸そう…と大久保是道の部屋に向かった。
「一夜たてば薄皮がはって、痛みも引くだろうと思ったがな。」
良太郎は、ついでに意地悪く付け加えた。
「生まれが良いと、治りも優雅に遅いのかな。」
「……とにかく、とても痛むようなのです。あの……、若さまは西洋靴のお怪我などは初めてなのです。国許では羽二重(絹)の足袋とお草履でお過ごしでしたから。あの……わたくしが、もう少し早く気が付いていれば良かったのです。そうしたら、若さまも……。」
涙を薄く浮かべて言いよどむ内藤詩音が気の毒で、ついに遮った。
「もういい。わかった。手を貸せばいいんだな。入学式に遅れないように、大久保君を講堂に連れてゆけばいいのだろう?」
瞬間、嬉々とした詩音にどこと無く違和感を感じたが、足を痛めた級友に手を貸すなど雑作もなかった。
支度を済ませ、大久保是道の部屋を訪ねて良太郎は、笑いを我慢することになる。
これではとても靴などはけまいというほど、大げさに包帯を巻いて級友は、良太郎を待っていた。ゴブラン織りの豪奢なクッションに傷めた足を乗せて……。
「若さま。佐藤様がお手をお貸しくださいます。」
情けないほどやわな皮膚だな……と、口にしかけて、向けられた花の笑顔に思わず止めた。驚いたことに、昨夜能面のようだった大久保是道は、良太郎に向けて別人のようにえも言われぬ艶な微笑を浮かべていた。
「大久保君。足はまだ、痛むのか?」
足を庇いながら、横合いから抱き上げる良太郎に、是道は黙って頷いた。
両手を広げて良太郎の首が下がるのを待っている。
ふわりと首に巻きついた軽い少年を抱えて、彼らは講堂に向かった。
階段も造作なく、とんとんと跳ねるように軽々と運ぶ良太郎の後から、付かず離れず詩音が後を追う。
「佐藤さまは、ずいぶん力持ちでいらっしゃいますね。」
「国許では米俵を担げないようじゃ、一人前とは認められないんだ。大久保君はせいぜい11貫(41.25㎏)あるなしだろう?」
詩音がはっと顔色を変え食ってかかった。
「お止めになってください。いくらなんでも…米俵と若さまを一緒にされては困ります。」
忠義な詩音には、もっともな申し出だった。
やり取りが面白いなぁ……といって、木羽がくすくすと笑った。
横合いから、詩音が木羽を無言で睨む。
拍手もポチもありがとうございます。
励みになりますので、応援よろしくお願いします。
コメント、感想等もお待ちしております。 此花咲耶
同室の木羽は母の手縫いの筒袖を着て、良太郎は新品のテーラードに袖を通した。
互いに少し、くすぐったい一張羅だった。
軽く扉を叩く音に、誰かが訪ねて来たのに、気付く。
「誰だろう……?」
同じ階に、部屋は7つもあったから、新入生の誰かが挨拶に来たのだろうと思った。
「おはようございます。佐藤さま。昨日は大変お世話になりました。」
「白鶴……内藤君。」
深々とお辞儀する白い小さな詩音の顔を見て、昨夜存在を無視されたのを思い出して、多少声が冷ややかになる。
「……もうすぐ式の時間だろう?御覧の通り、僕らはまだ着替えの最中なんだ、用件は手短に頼む。」
雛には希な詩音の貌を、初めて見た木羽が驚いて息を呑む中、衣服の汚れるのも構わず、詩音はその場で膝をつき良太郎に向かい平伏した。
「どうか、お願いします。このとおりです、佐藤さま。」
木羽が何事だと、床に伏した詩音の肩口を掴んで引っ張りあげた。
「妙な真似は、止めたまえ。同級生だろう。」
鼻白んだ良太郎もそっけなく、責めた。
「なんのつもりか知らないけれど、ぼくにはそんな大袈裟に頭を下げられる覚えがない。君が夕べの失敬な態度を反省しているというのなら、謹んで詫びは受けるけど。」
「あっ……」
顔を上げた詩音の目元には、羞恥の朱が走っていた。
良太郎に向けて、きっと玲瓏な貌を向けた。
「……昨夜のご無礼の段は、何とぞ……ご容赦なされてくださいませ。」
あまりに感情の無い謝罪に、良太郎は思わず、なんだそれは……と、噴いた。良太郎は、元々狭量な男ではなかったし、級友ともめるのも嫌だった。
これから少なくとも七年間は、共に同級生として暮らすのだ。
「その時代錯誤な物言いを止めて、普通に話してくれるなら、頼みごとを聞いてもいい。」
「わたくし、時代……錯誤……なのでしょうか?」
「え?気付いていなかったのか?何とぞなんて、今時分誰も使わんぞ。その物言いは、まるで歌舞伎の市川団……」
詩音の頬が軽く引きつったのを認めて、木羽が絡むのはいいかげんにしろと目配せをした。
「あの……若さまが、昨日の靴擦れがとても痛むそうなのです。」
「ああ、あれか。酷かったからな。」
良太郎は、大久保是道の酷い靴擦れを思いだした。
「わたくしの手は借りたくないと、若さまが申しますので、出来ましたら佐藤さまのお手をお貸しいただけたらと思いお願いに参りました。……あの……若さまは佐藤さまの手際の良さにいたく感服されまして、佐藤さまの手ならお借りしても良いと申しますので……。」
何も知らない木羽に、短く昨日の靴擦れの話を伝え、それならば手を貸そう…と大久保是道の部屋に向かった。
「一夜たてば薄皮がはって、痛みも引くだろうと思ったがな。」
良太郎は、ついでに意地悪く付け加えた。
「生まれが良いと、治りも優雅に遅いのかな。」
「……とにかく、とても痛むようなのです。あの……、若さまは西洋靴のお怪我などは初めてなのです。国許では羽二重(絹)の足袋とお草履でお過ごしでしたから。あの……わたくしが、もう少し早く気が付いていれば良かったのです。そうしたら、若さまも……。」
涙を薄く浮かべて言いよどむ内藤詩音が気の毒で、ついに遮った。
「もういい。わかった。手を貸せばいいんだな。入学式に遅れないように、大久保君を講堂に連れてゆけばいいのだろう?」
瞬間、嬉々とした詩音にどこと無く違和感を感じたが、足を痛めた級友に手を貸すなど雑作もなかった。
支度を済ませ、大久保是道の部屋を訪ねて良太郎は、笑いを我慢することになる。
これではとても靴などはけまいというほど、大げさに包帯を巻いて級友は、良太郎を待っていた。ゴブラン織りの豪奢なクッションに傷めた足を乗せて……。
「若さま。佐藤様がお手をお貸しくださいます。」
情けないほどやわな皮膚だな……と、口にしかけて、向けられた花の笑顔に思わず止めた。驚いたことに、昨夜能面のようだった大久保是道は、良太郎に向けて別人のようにえも言われぬ艶な微笑を浮かべていた。
「大久保君。足はまだ、痛むのか?」
足を庇いながら、横合いから抱き上げる良太郎に、是道は黙って頷いた。
両手を広げて良太郎の首が下がるのを待っている。
ふわりと首に巻きついた軽い少年を抱えて、彼らは講堂に向かった。
階段も造作なく、とんとんと跳ねるように軽々と運ぶ良太郎の後から、付かず離れず詩音が後を追う。
「佐藤さまは、ずいぶん力持ちでいらっしゃいますね。」
「国許では米俵を担げないようじゃ、一人前とは認められないんだ。大久保君はせいぜい11貫(41.25㎏)あるなしだろう?」
詩音がはっと顔色を変え食ってかかった。
「お止めになってください。いくらなんでも…米俵と若さまを一緒にされては困ります。」
忠義な詩音には、もっともな申し出だった。
やり取りが面白いなぁ……といって、木羽がくすくすと笑った。
横合いから、詩音が木羽を無言で睨む。
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