淡雪の如く 8
木羽市太郎のように優秀な武家の子弟が、どれだけ才能が有っても野に埋もれるしかない事実は良太郎も知っていた。産まれた境遇で一生が決まるのは、江戸も明治もそれほど変わらない。
「士族が大変だと言う話は、僕も良く聞くよ。田舎でも殿さまから禄(武士の給料)を貰えなくなった方々が、ご苦労されている。ご家老などご重役の方々は、仕事にありつけたが下々は大変みたいだね。」
「食えないと言うのは、君にはわからないだろうけど、実に切実だよ。士族の禄(財産)を保障するという触れ込みで、新政府は版籍奉還を進めたけど、実際には金がないから約束は堂々と反故にされたんだ。」
「そうなんだよなぁ。これまで、どっぷりぬるま湯に浸かって来た士族を、新政府はいきなり荒野に追放してしまったようなものだからね。」
「ああ。父上や叔父上などは、武家の商法で借金を重ねてどんどん貧乏になるばかりだ。」
「そうか…。難儀なことだね。」
「何しろ、ご婦人相手に荒物(日用雑貨)を商いながら、仏頂面で留守番してる。横柄で頭を下げる術を知らないのだから、買う方だって嫌になるだろうさ。」
「そうか。強面が留守番してたんじゃ、ご婦人には敷居が高いかもしれないね。」
「うん。だがね、僕はそれほど悲観的ではないんだ。ここでしっかり勉強して、未来をきちんと輝くものにするつもりだよ。」
「頼もしいな。」
「食うためだよ。最悪、愛想笑いを覚えて、荒物屋の主人だ。」
木羽市太郎は、この上なく明るく笑った。
余談だが、この時代、驚くほど困窮の没落士族は多かった。
天皇陛下に献上されお褒めの言葉を戴いた、「キムラヤの桜あんぱん」などは、たまたま上手くいった武家の商法の筆頭にすぎない。
勿論、こういった厳しい真実は新政府に握りつぶされて、それ以上の話が市中に出回ることはなかった。
級友のこれまでの目に見えない苦労を思い、特待生の幸運を共に喜んだ良太郎だった。
庄屋出身の良太郎には、空腹を水で紛らせて眠るような日はない。本来なら畑違いで友人に成れないはずの二人だった。良太郎は木羽市太郎と同部屋になれた幸運を素直に喜んでいた。
「ねぇ、佐藤君。ところでさ、華桜陰の試験は難しかっただろう?」
「脳みそが沸騰するほどね。ことに数学が難しかったよ。外国語は、……前途多難だ。」
試験日が違ったので、国立のナンバースクールも受けてみたが、向こうのほうが遥かに易しかったと思うと木羽は言う。
「官費留学生に選ばれるものは、今や華桜陰が一番多いのだろう?実は密かに狙っている。」
「そうか。ここでは如月理事長自らが、入学試験と面接に立ち会うから、生徒の質が他とはまるで違うという話だ。何とか通った僕が言うのも変な話だけど。ただ、出来のいい生徒には援助を惜しまないという事だよ。」
「なるほど。これでますます目的がはっきりした。しっかり学ぼう。」
「勿論だ。」
同室の木羽が、真面目に勉学に励む志を持っているのに思わず感動した良太郎は、君が同部屋でよかったと心からの喝采を叫んだ。その夜、二人は遅くまで互いの話をした。
良太郎は夢を語った。
「ぼくの家は百姓なんだが、いずれ測量なども勉強したいと思っているんだ。」
「へぇ。それはご実家の役に立つのか?」
「立つとも。荒地に水路を引くところから始めて、田畑を作って収穫量を増やしたり、もっとよく実る稲を改良できたらと思っている。」
木羽市太郎の家は、新政府に目の敵にされた東北出身の貧しい武家で、良太郎の稲の改良の話を真剣に聞いた。冷害は常に身近にあり若い娘たちの身売りは日常茶飯事だったからだ。
「それはいい。早く、そうなるといいなぁ。君、きっと成功させてくれよ。」
「応援してくれるのか?まだ、理想でしかないのに。」
「ああ。うちの弟妹が、ひもじい思いをせずに、米を遠慮なく食えるようになればうれしいからな。寒さに強い米が出来たら、北国の者たちは皆大喜びだ。」
「それは早急に手を打たねば。」
「そうとも。我が家の食糧事情の為に、頑張ってくれ佐藤君。」
熱く語る二人には、何の垣根も無かった。
「ああ、早く授業が始まらないかな。今はまだ、漠然とした夢だけど、もしかすると努力次第では叶う夢かもしれない。早く、生物の教授と話がしたいよ。」
「測量と並行で学ぶのは大変そうだな。」
「何の。遣り甲斐があるというものだ。頑張るさ。」
向学心に燃える二人は、この日、深夜遅くまで夢を語り合った。
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コメント、感想等もお待ちしております。 此花咲耶
「士族が大変だと言う話は、僕も良く聞くよ。田舎でも殿さまから禄(武士の給料)を貰えなくなった方々が、ご苦労されている。ご家老などご重役の方々は、仕事にありつけたが下々は大変みたいだね。」
「食えないと言うのは、君にはわからないだろうけど、実に切実だよ。士族の禄(財産)を保障するという触れ込みで、新政府は版籍奉還を進めたけど、実際には金がないから約束は堂々と反故にされたんだ。」
「そうなんだよなぁ。これまで、どっぷりぬるま湯に浸かって来た士族を、新政府はいきなり荒野に追放してしまったようなものだからね。」
「ああ。父上や叔父上などは、武家の商法で借金を重ねてどんどん貧乏になるばかりだ。」
「そうか…。難儀なことだね。」
「何しろ、ご婦人相手に荒物(日用雑貨)を商いながら、仏頂面で留守番してる。横柄で頭を下げる術を知らないのだから、買う方だって嫌になるだろうさ。」
「そうか。強面が留守番してたんじゃ、ご婦人には敷居が高いかもしれないね。」
「うん。だがね、僕はそれほど悲観的ではないんだ。ここでしっかり勉強して、未来をきちんと輝くものにするつもりだよ。」
「頼もしいな。」
「食うためだよ。最悪、愛想笑いを覚えて、荒物屋の主人だ。」
木羽市太郎は、この上なく明るく笑った。
余談だが、この時代、驚くほど困窮の没落士族は多かった。
天皇陛下に献上されお褒めの言葉を戴いた、「キムラヤの桜あんぱん」などは、たまたま上手くいった武家の商法の筆頭にすぎない。
勿論、こういった厳しい真実は新政府に握りつぶされて、それ以上の話が市中に出回ることはなかった。
級友のこれまでの目に見えない苦労を思い、特待生の幸運を共に喜んだ良太郎だった。
庄屋出身の良太郎には、空腹を水で紛らせて眠るような日はない。本来なら畑違いで友人に成れないはずの二人だった。良太郎は木羽市太郎と同部屋になれた幸運を素直に喜んでいた。
「ねぇ、佐藤君。ところでさ、華桜陰の試験は難しかっただろう?」
「脳みそが沸騰するほどね。ことに数学が難しかったよ。外国語は、……前途多難だ。」
試験日が違ったので、国立のナンバースクールも受けてみたが、向こうのほうが遥かに易しかったと思うと木羽は言う。
「官費留学生に選ばれるものは、今や華桜陰が一番多いのだろう?実は密かに狙っている。」
「そうか。ここでは如月理事長自らが、入学試験と面接に立ち会うから、生徒の質が他とはまるで違うという話だ。何とか通った僕が言うのも変な話だけど。ただ、出来のいい生徒には援助を惜しまないという事だよ。」
「なるほど。これでますます目的がはっきりした。しっかり学ぼう。」
「勿論だ。」
同室の木羽が、真面目に勉学に励む志を持っているのに思わず感動した良太郎は、君が同部屋でよかったと心からの喝采を叫んだ。その夜、二人は遅くまで互いの話をした。
良太郎は夢を語った。
「ぼくの家は百姓なんだが、いずれ測量なども勉強したいと思っているんだ。」
「へぇ。それはご実家の役に立つのか?」
「立つとも。荒地に水路を引くところから始めて、田畑を作って収穫量を増やしたり、もっとよく実る稲を改良できたらと思っている。」
木羽市太郎の家は、新政府に目の敵にされた東北出身の貧しい武家で、良太郎の稲の改良の話を真剣に聞いた。冷害は常に身近にあり若い娘たちの身売りは日常茶飯事だったからだ。
「それはいい。早く、そうなるといいなぁ。君、きっと成功させてくれよ。」
「応援してくれるのか?まだ、理想でしかないのに。」
「ああ。うちの弟妹が、ひもじい思いをせずに、米を遠慮なく食えるようになればうれしいからな。寒さに強い米が出来たら、北国の者たちは皆大喜びだ。」
「それは早急に手を打たねば。」
「そうとも。我が家の食糧事情の為に、頑張ってくれ佐藤君。」
熱く語る二人には、何の垣根も無かった。
「ああ、早く授業が始まらないかな。今はまだ、漠然とした夢だけど、もしかすると努力次第では叶う夢かもしれない。早く、生物の教授と話がしたいよ。」
「測量と並行で学ぶのは大変そうだな。」
「何の。遣り甲斐があるというものだ。頑張るさ。」
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