花菱楼の緋桜 2
安曇が枕辺に座ったとき、母は難産で苦しみ抜いていた。
子などいらぬと、産婆に向かって喚いていた。
「母さま、どうぞお気を確かに。きっとまもなく遠くの父上もいらっしゃいますよ。しっかりなさって!」
年の割に利発な安曇は、周囲の大人の噂を聞いて父が帰ってこない理由は、母にもあるのだろうと知っていた。
炊事も洗濯も掃除も、妻らしいことの何もできない女は、今や主君という名の過去の遺物から下された無用の品物にすぎない。
それでも安曇は、どこか童女のようにあどけない母が好きだった。
産まれて来た小さな弟が愛おしくてたまらなかった。安曇の荒れた指を、赤子はきゅっと握って吸った。
「まあ、可愛い……母さま。この子は、わたしを好きみたいです。」
「しっかり面倒見ておくれ。母は、乳を飮ませるので精一杯じゃ。」
「はい。母さまはゆっくりお休みください。坊のお乳が止まったら大変です。」
家族を守る為に、安曇が誰にも内緒で金貸しから金を借りたのは、どうしようもないことだった。
いつかは、父が帰ってくる迄の辛抱と、ぎりぎりまで耐えていたがどこからも金の入る手立てはなかった。家財を売っても母の好きな水菓子や黒豆の入ったお餅は高価で、安曇の貰う乏しい駄賃で買えるはずもなかった。
米櫃(こめびつ)に米が無くなり、高価なお砂糖代わりの蜂蜜も買えなくなり、安曇は最後に父が残していった腰刀を、もう武士の時代は終わったのだと心で言い訳し、涙ながらに売り払ったのだ。
「のうのう、安曇。母は頭が痛うてたまらぬ。早う頭痛膏薬をお医師にもらってきてたもれ。」
母は、都での雅な暮らしが忘れられず、たまに公家言葉を使った。
哀しげな表情の安曇が、懐から薄い銭入れを取り出すと産後の母の前にぺたりと座り、思いつめて打ち明けた。
「母さま。これでお金は最後です。安曇はこのまま、母さま達とは一緒に暮らせなくなりました。」
「金貸しの銀二さんにお借りしたお金には三月の期限が付いていたのです。ですから、安曇はこれから、しばらく奉公に参ります。」
「母さまのお傍でお仕えしたいのですけれど……お足がなければ……赤ん坊も飢えてしまいますから、安曇の不孝をお許しください。」
すると母は、思いがけず優しげな微笑みを浮かべ、安曇の手を取った。
「お前がいなくなるのは、母さまも身を切られるように辛い。だけど、お前にとっても大事な弟をどこぞに里子にやってしまうのも忍びない。堪えて(こらえて)奉公しておくれ。母さまは、お前がいなくとも、ややをちゃんと大事に育てようよ。」
安曇はふるふると頭を何度も縦に振って、母に告げた。
「安曇は、喜んで奉公に参ります。奉公先の旦那様に気に入っていただけたら、たくさんのお支度金をいただけるそうですから、母さまにお仕送りできるように頑張ってきます。」
「早くお仕事に慣れて、お休みを頂けるようになったら、可愛い坊に逢いに帰ってきます。」
「身体に気を付けて、たんと可愛がってもらうんだよ。」
「あい。」
深々と母に頭を下げた安曇の頬は、もう濡れてはいなかった。
金貸しの銀二は支度金の半分を母親に渡すと、残りは向こうに安曇坊を渡してからだと告げた。
「銀二さん。支度をする間、少しの間お待ちいただけますか?」
「おう。」
うなづく銀二の手は、母の肩にある。
銀二は安曇が席を外すと、母親の耳朶に舌を差し入れささやいた。肩の手が滑り降りて、まろやかな丸みをまさぐって母の吐息が甘くなる。
「お姫さんも、とんだ悪党だなぁ。なさぬ仲の子だと言っても、あんないい子をよりによって男女郎(おとこえし)にしちまおうなんて。」
「前の奥方の忘れ形見を、ここまで大きくしてやったのです。感謝こそすれ、何の不足もありますまい。」
「生まれた弟が、おいらとあんたの子だと知ったら、安曇坊はさぞかし悲しむだろうよ。腹のややが、十月十日しか腹の中に居ないってこともあの子は知らないんだろう?」
「血を分けた弟の為に、これから身体売ろうってのにさ。」
「あれは、正真正銘の無垢ですよ。廓に高く売ってくださいよ。女衒の銀二さん。わたくし、新しい柘植(つげ)の櫛が欲しいのです。」
深窓のお姫様だった母親は、豊かな乳をくつろげると生まれたばかりの赤子に含ませた。
丸々とした赤子は何も知らずに母の乳に喰らい付いていた。
破れた襖紙の向こうでかさと、音がした。
……蒼白になった安曇は、話をみんな聞いていた。
「わたしの……身体を売るって……?どういう事だろう。ご奉公に行くのに……。」
(´・ω・`) 安曇:「磯良さん、本当にハピエンだと思う?」
(*´・ω・) 磯良:「なんか、怪しいよなぁ……」
(*⌒▽⌒*)♪「大丈夫でっす!最後にはハピエンだから~!」
拙作「淡雪の如く」一気読みしてくださった方ありがとうございました。
拍手うれしかったです。
子などいらぬと、産婆に向かって喚いていた。
「母さま、どうぞお気を確かに。きっとまもなく遠くの父上もいらっしゃいますよ。しっかりなさって!」
年の割に利発な安曇は、周囲の大人の噂を聞いて父が帰ってこない理由は、母にもあるのだろうと知っていた。
炊事も洗濯も掃除も、妻らしいことの何もできない女は、今や主君という名の過去の遺物から下された無用の品物にすぎない。
それでも安曇は、どこか童女のようにあどけない母が好きだった。
産まれて来た小さな弟が愛おしくてたまらなかった。安曇の荒れた指を、赤子はきゅっと握って吸った。
「まあ、可愛い……母さま。この子は、わたしを好きみたいです。」
「しっかり面倒見ておくれ。母は、乳を飮ませるので精一杯じゃ。」
「はい。母さまはゆっくりお休みください。坊のお乳が止まったら大変です。」
家族を守る為に、安曇が誰にも内緒で金貸しから金を借りたのは、どうしようもないことだった。
いつかは、父が帰ってくる迄の辛抱と、ぎりぎりまで耐えていたがどこからも金の入る手立てはなかった。家財を売っても母の好きな水菓子や黒豆の入ったお餅は高価で、安曇の貰う乏しい駄賃で買えるはずもなかった。
米櫃(こめびつ)に米が無くなり、高価なお砂糖代わりの蜂蜜も買えなくなり、安曇は最後に父が残していった腰刀を、もう武士の時代は終わったのだと心で言い訳し、涙ながらに売り払ったのだ。
「のうのう、安曇。母は頭が痛うてたまらぬ。早う頭痛膏薬をお医師にもらってきてたもれ。」
母は、都での雅な暮らしが忘れられず、たまに公家言葉を使った。
哀しげな表情の安曇が、懐から薄い銭入れを取り出すと産後の母の前にぺたりと座り、思いつめて打ち明けた。
「母さま。これでお金は最後です。安曇はこのまま、母さま達とは一緒に暮らせなくなりました。」
「金貸しの銀二さんにお借りしたお金には三月の期限が付いていたのです。ですから、安曇はこれから、しばらく奉公に参ります。」
「母さまのお傍でお仕えしたいのですけれど……お足がなければ……赤ん坊も飢えてしまいますから、安曇の不孝をお許しください。」
すると母は、思いがけず優しげな微笑みを浮かべ、安曇の手を取った。
「お前がいなくなるのは、母さまも身を切られるように辛い。だけど、お前にとっても大事な弟をどこぞに里子にやってしまうのも忍びない。堪えて(こらえて)奉公しておくれ。母さまは、お前がいなくとも、ややをちゃんと大事に育てようよ。」
安曇はふるふると頭を何度も縦に振って、母に告げた。
「安曇は、喜んで奉公に参ります。奉公先の旦那様に気に入っていただけたら、たくさんのお支度金をいただけるそうですから、母さまにお仕送りできるように頑張ってきます。」
「早くお仕事に慣れて、お休みを頂けるようになったら、可愛い坊に逢いに帰ってきます。」
「身体に気を付けて、たんと可愛がってもらうんだよ。」
「あい。」
深々と母に頭を下げた安曇の頬は、もう濡れてはいなかった。
金貸しの銀二は支度金の半分を母親に渡すと、残りは向こうに安曇坊を渡してからだと告げた。
「銀二さん。支度をする間、少しの間お待ちいただけますか?」
「おう。」
うなづく銀二の手は、母の肩にある。
銀二は安曇が席を外すと、母親の耳朶に舌を差し入れささやいた。肩の手が滑り降りて、まろやかな丸みをまさぐって母の吐息が甘くなる。
「お姫さんも、とんだ悪党だなぁ。なさぬ仲の子だと言っても、あんないい子をよりによって男女郎(おとこえし)にしちまおうなんて。」
「前の奥方の忘れ形見を、ここまで大きくしてやったのです。感謝こそすれ、何の不足もありますまい。」
「生まれた弟が、おいらとあんたの子だと知ったら、安曇坊はさぞかし悲しむだろうよ。腹のややが、十月十日しか腹の中に居ないってこともあの子は知らないんだろう?」
「血を分けた弟の為に、これから身体売ろうってのにさ。」
「あれは、正真正銘の無垢ですよ。廓に高く売ってくださいよ。女衒の銀二さん。わたくし、新しい柘植(つげ)の櫛が欲しいのです。」
深窓のお姫様だった母親は、豊かな乳をくつろげると生まれたばかりの赤子に含ませた。
丸々とした赤子は何も知らずに母の乳に喰らい付いていた。
破れた襖紙の向こうでかさと、音がした。
……蒼白になった安曇は、話をみんな聞いていた。
「わたしの……身体を売るって……?どういう事だろう。ご奉公に行くのに……。」
(´・ω・`) 安曇:「磯良さん、本当にハピエンだと思う?」
(*´・ω・) 磯良:「なんか、怪しいよなぁ……」
(*⌒▽⌒*)♪「大丈夫でっす!最後にはハピエンだから~!」
拙作「淡雪の如く」一気読みしてくださった方ありがとうございました。
拍手うれしかったです。
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