花菱楼の緋桜 1
ざぶりと潜り、水中で目を開くと眼前を川魚がついと通り過ぎる。
水の中で逃げるなと叫んだら、どっと泡になった。
安曇は、身重の母の為に魚を取ろうと必死なのだった。
魚はするすると銛をかいくぐり、不慣れな安曇は息が続かなくなる。
水面に浮かび上がると大きく息を求めた。
「ぷはっ……!」
薄日で温もった岩場に上がろうとして、人影にやっと気が付いた。
「あ、磯良(いそら)さん。」
思わず見上げて、人懐こい顔を向ける。
近所に住む年上の酒井磯良を、兄とも思って慕っていた。
「安曇。相変わらず魚獲るのへたくそだなぁ。」
「だって……安曇は……磯良さんのように素潜りが上手くないから……。」
そう言いながら、みるみる涙が盛り上がってくるのを認めると、磯良と呼ばれた少年は慌てた。
「済まぬ。決して馬鹿にしたわけではないのだ。泣くな、安曇。」
「……あい。」
安曇は、伊達や酔狂で魚を獲っているのではない。
身重の母親に栄養をつけさせる為に必死になっているのだった。
いつぞや、御伽草子を読んでやったら真剣に語った。
「磯良さん。龍の子太郎のお話は可哀想だ。太郎のお母さんはたった三匹の山女魚(ヤマメ)を食べたから龍になってしまったんだね。」
「そうだなぁ、貧しい山で獲れるものは少ないから、分けて食べましょうってことだね。」
「きっと、太郎のお母さんはお腹に赤ちゃんがいたんだよ。だって、安曇の母さまも二人分だから、うんとお腹がすくっていうもの。」
磯良は、ぜいたくな安曇の母親の顔を思い出しながら、自分の魚籠(びく)に入っている数匹の川魚を、移し込んでやった。
「そら。いっぱい喰ってもらえ。」
「磯良さんっ!わ~……こんなに。ありがとう……っ!」
安曇は満面の笑顔で、礼を言おうとしたが先ほどの涙が裏切って頬を転がった。
兄のような磯良が、魚の少ないこの川で数匹の川魚を獲るのにどれだけの労力を掛けてくれたか安曇には十分わかっていた。
細腕に銛(もり)を握り締めて、安曇は毎日母の為に魚を獲る。
ご維新以来、侍に生きる道はなくなった。
自分が側室にしていた貧乏公家のお姫様を主君から下されて、下級武士の父は有り難く頂戴したが何もできないくせに贅沢ばかりする妻に、何の不満も抱かなかったのだろうか。
食べるために、父は単身国を出て給金を送って来るらしいが、働いたことの無い母には金銭感覚がなく、家計は常に火の車だった。
母の代わりに安曇は、物心つく前から、畑の手伝いをしたり薪を山から取って来て、少しばかりの駄賃を得ていた。
まだ子供の安曇には、知らないことがいっぱいあった。
身分制度が無くなる時に、お国から頂いた大きなお金は、母のお誂えの着物になり赤子のむつきは磯良の母親が見かねて用意してくれたこと。
そんな母に父は愛想をつかして、とうの昔に女と出奔し今や行方がしれないこと。
届けられる生活費は、母の昔の知り合いが、成長する安曇への思惑を持って用立てていてくれたこと。
母の腹の子も、その知り合いの子で、安曇には実は何の関わりもないこと。
遠くで働いているはずの父が居ない今、すべてはまだ幼い安曇の肩にかかっていた。
生まれてくる赤子の良い兄にならねばと、固く決心していた。
ふと……遠くで誰かが呼ぶ声がする気がして、顔を廻らせた。
「おおい、安曇」と呼ぶ声に、臨月の母が産気づいたと思い、必死であばら家へと駆け戻った。
やっと一匹獲れたイワナと、磯良に貰った分で重くなった魚籠に下げて、安曇は必死に母の元へと走った。
この作品は此花が、違う名前で書いていたものです。どこかで読んだ気がする方もいらっしゃるかもしれません。
再掲するにあたり、かなり改稿しました。
次は現代もののはずでしたが、時代を遡ってしまいました。(´・ω・`)
思いっきり時代がかったBL花魁ものです。でも、ハピエンなので安心してねっ!(*⌒▽⌒*)♪← 信用なし。
しばらく、お付き合いください。
どうぞよろしくお願いします。
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