花菱楼の緋桜 8
青海花魁は、静かに禿を見つめていた。
湯屋で辛い身体検めを受けても、覚悟を決めた緋桜はきちんと前を向いていた。
涙の筋は残っていたが、面倒を見てくれる「兄さん」の前できちんとお行儀よく挨拶をし、運命を受け入れていた。強い子だと、青海花魁は思った。内心、ほっと安堵する。
「青海兄さん。番頭新造の浅木兄さんに、ようく身体を洗っていただきんした。」
「そうでありんしたか。わっちからもよくお礼を言っておきんしょう。」
この子は、降りかかる災禍を受け止めるしなやかな心を持っている。
でなければ、今頃は泣き喚くか大門へ足抜けに走っているだろう……どこまでも青海を慕っていた青紫(せいし)のように……。心弱い青紫は青海以外の男に初花を散らされると知り、振袖新造となった夜に首をくくった。
ふと手を伸ばし、緋桜の目元に溜まった露を掃って(はらって)やった。
「緋桜の故郷のいい人の名は、磯良さんという名でありんすね。」
いぶかしげに、なぜそれを……?という顔を向けたら、思いがけず青海花魁はどこか遠い目をしたように思う。
「湯殿で……泣きながら、「磯良さん」と呼んでいたそうだよ。何度も、何度も、「磯良さん」って。番頭新造に聞いて、俺は可哀想で胸が痛くなった。」
「青海兄さん……。緋桜は平気でありんす。」
「どうにも辛くてたまらなかったよ。俺の可愛がっていた念弟が禿になったときも、同じように慕って俺を呼んでいたらしいからね。思い出してしまった。」
「検めの時に、その方は兄さんの名前を呼んだの……でありんすか?」
「そうだよ。その子はお前と同じお武家の出身でね。冷や飯食いの俺が娼妓になったと聞いて花菱楼まで追いかけてきてね、止めるのも聞かず身を落としたんだ。駄目だと言っても娼妓になる前の、色気の無い名前ばかりを呼んでいたね。」
「花魁になるのがどういうことか、身体を売るのがどういうことか、愚かなあの子には何もわかっちゃいなかったんだ……。」
青海花魁の悲しげな顔が、じっと緋桜を見つめた。
「儚くなる前の日は、ずうっと泣いていたよ。客を取るのが怖いって……。兄さん、助けてって。」
「それなのに、ぼくは心の弱いあの子に優しくできなくて、とうとう戻れない深い淵に沈めてしまったんだ……。苦界に望んで来た以上、こうなることは分かっていたことじゃないか。今更、どうなるものでもない、男なら腹を決めろと、詰って突き放しちまった……。」
「あの子は、ただぼくの傍にいたかっただけなのにね。とうとう、店出しの前日……思い余って首をくくったのさ。」
三味線を取り上げた青海花魁は一節、都都逸もどきを歌った。
「苦労する身は何いとわねど 苦労し甲斐のあるように……哀れ波間に青紫を沈めて、実のない青海が浮きあがる……」
襦袢の上に、小紋の間着(あいぎ)を着てあんこ帯の下に手を入れた青海花魁は、三味線を傍らに置くと緋桜を傍へと呼んだ。
「俺には、何も隠さなくていいよ。緋桜の出自はご維新前、武家だろう?」
緋桜は、はっと驚いたように青海花魁を見つめた。
「ほら。この可愛い手にあるのは、鍛練でできた刀だこだろう?お前は、なんでも一生懸命なんだね。」
「我慢しすぎて、どうにかなったりしないでおくれよ……?良いね、あんな思いはもうたくさんだ。辛い時には辛いと言うんだよ。緋桜が困った時には、青海兄さんがきっとお前を助けてあげる。誰を敵にしてでも、俺だけはお前の味方だよ。」
大きな黒い瞳が、兄さん……と潤んだ。
「ここに流れてくるものは大勢いるが、心の弱いものは皆、早々に散ってゆくんだ。花菱楼でも盛りの花は競い合っているが、同じ立場で生き馬の目を抜く稼業だ。どこの世でも生きるってのは骨が折れるものだよ。」
「お前の覚悟を知りたかったから、浅木に頼んで湯屋で無理をさせた。済まなかったね。辛かったろう。」
青海花魁は金襴の打掛の裾を足でぽんと蹴ると、おいでと手招きをした。
「緋桜の好きな磯良さんは、年季が明けるまで心の内側に沈めておしまい。いつまでもかなわぬ夢を追うものは、いつか夢ごと獏に食われてしまうんだよ。いいね。」
「……ひっ……く……。」
「よしよし……今日だけは泣いてもいいよ。強い子だ、緋桜……明日からは、兄さんの傍で美味しい物をいっぱい食べて、たんと笑おうな。」
「あ……あい……。」
「いつか、花菱楼の天辺(てっぺん)をお取り。緋桜。運命なんぞに呑まれるんじゃないよ。」
「あ……い。あぁ~ん……」
例え高級娼館と言えども、身を売ることに変わりはない。苦界に身を沈めるということは、叶わぬ夢を捨てること。緋桜は青海の胸に縋って、今宵限りと泣いた。
『安曇、忘れるな。きっとお前に逢いに行く。』
優しい田舎の磯良さんとの約束が、緋寒桜の花弁と一緒に浮かんでは消えた。
『安曇……』
優しい笑顔が目蓋の裏で揺れた。
さようなら……。
さようなら、磯良さん。
さようなら。
今日もお読みいただき、たくさんの拍手、ありがとうございます。
この作品は、加筆改稿してありますが再掲になります。 此花咲耶
湯屋で辛い身体検めを受けても、覚悟を決めた緋桜はきちんと前を向いていた。
涙の筋は残っていたが、面倒を見てくれる「兄さん」の前できちんとお行儀よく挨拶をし、運命を受け入れていた。強い子だと、青海花魁は思った。内心、ほっと安堵する。
「青海兄さん。番頭新造の浅木兄さんに、ようく身体を洗っていただきんした。」
「そうでありんしたか。わっちからもよくお礼を言っておきんしょう。」
この子は、降りかかる災禍を受け止めるしなやかな心を持っている。
でなければ、今頃は泣き喚くか大門へ足抜けに走っているだろう……どこまでも青海を慕っていた青紫(せいし)のように……。心弱い青紫は青海以外の男に初花を散らされると知り、振袖新造となった夜に首をくくった。
ふと手を伸ばし、緋桜の目元に溜まった露を掃って(はらって)やった。
「緋桜の故郷のいい人の名は、磯良さんという名でありんすね。」
いぶかしげに、なぜそれを……?という顔を向けたら、思いがけず青海花魁はどこか遠い目をしたように思う。
「湯殿で……泣きながら、「磯良さん」と呼んでいたそうだよ。何度も、何度も、「磯良さん」って。番頭新造に聞いて、俺は可哀想で胸が痛くなった。」
「青海兄さん……。緋桜は平気でありんす。」
「どうにも辛くてたまらなかったよ。俺の可愛がっていた念弟が禿になったときも、同じように慕って俺を呼んでいたらしいからね。思い出してしまった。」
「検めの時に、その方は兄さんの名前を呼んだの……でありんすか?」
「そうだよ。その子はお前と同じお武家の出身でね。冷や飯食いの俺が娼妓になったと聞いて花菱楼まで追いかけてきてね、止めるのも聞かず身を落としたんだ。駄目だと言っても娼妓になる前の、色気の無い名前ばかりを呼んでいたね。」
「花魁になるのがどういうことか、身体を売るのがどういうことか、愚かなあの子には何もわかっちゃいなかったんだ……。」
青海花魁の悲しげな顔が、じっと緋桜を見つめた。
「儚くなる前の日は、ずうっと泣いていたよ。客を取るのが怖いって……。兄さん、助けてって。」
「それなのに、ぼくは心の弱いあの子に優しくできなくて、とうとう戻れない深い淵に沈めてしまったんだ……。苦界に望んで来た以上、こうなることは分かっていたことじゃないか。今更、どうなるものでもない、男なら腹を決めろと、詰って突き放しちまった……。」
「あの子は、ただぼくの傍にいたかっただけなのにね。とうとう、店出しの前日……思い余って首をくくったのさ。」
三味線を取り上げた青海花魁は一節、都都逸もどきを歌った。
「苦労する身は何いとわねど 苦労し甲斐のあるように……哀れ波間に青紫を沈めて、実のない青海が浮きあがる……」
襦袢の上に、小紋の間着(あいぎ)を着てあんこ帯の下に手を入れた青海花魁は、三味線を傍らに置くと緋桜を傍へと呼んだ。
「俺には、何も隠さなくていいよ。緋桜の出自はご維新前、武家だろう?」
緋桜は、はっと驚いたように青海花魁を見つめた。
「ほら。この可愛い手にあるのは、鍛練でできた刀だこだろう?お前は、なんでも一生懸命なんだね。」
「我慢しすぎて、どうにかなったりしないでおくれよ……?良いね、あんな思いはもうたくさんだ。辛い時には辛いと言うんだよ。緋桜が困った時には、青海兄さんがきっとお前を助けてあげる。誰を敵にしてでも、俺だけはお前の味方だよ。」
大きな黒い瞳が、兄さん……と潤んだ。
「ここに流れてくるものは大勢いるが、心の弱いものは皆、早々に散ってゆくんだ。花菱楼でも盛りの花は競い合っているが、同じ立場で生き馬の目を抜く稼業だ。どこの世でも生きるってのは骨が折れるものだよ。」
「お前の覚悟を知りたかったから、浅木に頼んで湯屋で無理をさせた。済まなかったね。辛かったろう。」
青海花魁は金襴の打掛の裾を足でぽんと蹴ると、おいでと手招きをした。
「緋桜の好きな磯良さんは、年季が明けるまで心の内側に沈めておしまい。いつまでもかなわぬ夢を追うものは、いつか夢ごと獏に食われてしまうんだよ。いいね。」
「……ひっ……く……。」
「よしよし……今日だけは泣いてもいいよ。強い子だ、緋桜……明日からは、兄さんの傍で美味しい物をいっぱい食べて、たんと笑おうな。」
「あ……あい……。」
「いつか、花菱楼の天辺(てっぺん)をお取り。緋桜。運命なんぞに呑まれるんじゃないよ。」
「あ……い。あぁ~ん……」
例え高級娼館と言えども、身を売ることに変わりはない。苦界に身を沈めるということは、叶わぬ夢を捨てること。緋桜は青海の胸に縋って、今宵限りと泣いた。
『安曇、忘れるな。きっとお前に逢いに行く。』
優しい田舎の磯良さんとの約束が、緋寒桜の花弁と一緒に浮かんでは消えた。
『安曇……』
優しい笑顔が目蓋の裏で揺れた。
さようなら……。
さようなら、磯良さん。
さようなら。
今日もお読みいただき、たくさんの拍手、ありがとうございます。
この作品は、加筆改稿してありますが再掲になります。 此花咲耶
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