花菱楼の緋桜 3
そっと裏口から外へ走り出ると、安曇は闇雲に走り出した。
いつも赤子のむつきを洗う洗い場まで来ると、喰いしばった口からひゅっと嗚咽が漏れた。
誰もいない所と、磯良の前でしか安曇は泣いたことがない。
武家の子は、決して人前では泣かぬものと幼い頃より自然に身についていた。
「父上……。どうして、わたしをお連れ下さらなかったのです。」
「どうして安曇を一人、母さまの元に置いてゆかれたのです……。安曇は……もう、どうしていいかわからなくなりました。」
水面を眺め悲嘆にくれていると、ひとつの花蕾が流れてきた。
「花……?紅色のさ……くら……?」
早くに咲く緋寒桜の木は遠くの山に有って、安曇は磯良の話でしか聞いたことがなかった。
もう少し大きくなって、木々の下刈りの手伝いができるようになったら、磯良が連れて行ってやると言ってくれて安曇は楽しみにしていた。
「ああ、本当に紅色なんだ。」
「磯良さんなの……?」
流れてくる花弁を辿り目で追うと、橋の上から水面に向かってはらはらと磯良が紅色の花蕾をいくつも落としていた。
「山に連れて行く約束が守れなかったから、緋寒桜だけでも見せてやろうと思って。」
「持ってきてくれればよかったのに。もう……逢えなくなるのに。」
「そら。逢えば安曇がそうやって泣くじゃないか。俺は安曇が泣くのがいっとう辛いんだ。」
そう聞くと、安曇は涙をぬぐって無理にふふっと笑って見せた。
「磯良さん。安曇は帝都のお店(たな)に奉公することになったんだよ。」
「丁稚奉公か。お店は商いなのか?休みには帰ってこれそうなのか?」
「銀二さんの紹介で、男女郎(おとこえし)になるの。花菱楼と言うところで禿になって下働きをするの。」
「男女郎(おとこえし)……って。お前、何をするところかわかって、そんな所へ行くのか?」
「え……?お風呂を沸かしたり、お洗濯をしたり、安曇にできる下働きのお仕事だそうだけれど……」
何も知らない無垢な丸い瞳が、不安げに磯良を見た。
「安曇は、どこへやられるの……?磯良さん、知っているなら教えて。身体を売るって、どういうことなの……?」
「男女郎(おとこえし)というのは、こんな字を書くんだ。安曇。」
棒切れで書いて見せたら、安曇が息を詰めた。
女郎と言う字は、大人の中に雜じって働いていたらいやでも耳に入ってくる。
「どこそこの飯盛り女郎は、情が怖くていけねぇや。」とか「どこそこの若旦那が格子女郎に入れ込んで、お店をつぶした。」などという話は、安曇にも耳馴染みだった。
「いいかい、安曇。驚かないでお聞きよ。」
「……あい。」
磯良は言うべきかどうか、悩んだが真実を教えてやろうと思った。
どうせ苦界に落ちる身の上なら、きっぱりと諦めておくのが上策だ。下手に希望を持って行って泣く方が哀れだ。
「男女郎(おとこえし)ってのは、男に身体を売る仕事なんだ。」
「磯良さん、それは安曇にもできるお仕事?」
「俺は話でしか知らないが、そういうお仕事があるそうだよ。安曇には辛いことかもしれない。」
「……辛抱します。安曇が高利でお金を借りてしまったのだもの……。」
どんどんうつむいてしまった安曇は、わからないなりに「身を売る」ことが大変なことというのは理解した。
ごくり…と、安曇が生唾を飲み込んだ。
「お金を使ったのは母さまだけど、借りたのは母さまではなくて安曇なのだもの。どんなところだろうと行くしかないの。」
「安曇……。」
どうにもたまらず、磯良は細い安曇の身体を折れよとばかりに、抱きしめた。
血の出るほど唇をかんで、磯良は慟哭した。
「可哀想に……安曇。俺がもっと大人で金があったら、お前をそんなところへやらずに済んだのに。力がなくて、俺は悔しいよ。」
「磯良さん。」
「いいかい、安曇。大人になったら俺がきっと迎えに行く。」
「ほんとう……?」
「ああ、げんまんをしてやるから、忘れるなよ。安曇がどんな名前の太夫になっても、俺を忘れていても、きっと迎えに行く。緋寒桜を見せてやるって約束も、まだだったろう?」
忘れないと安曇が胸に縋った。
どうにもたまらず、磯良は安曇の甘い口を音を立てて吸った。
「磯良さん。安曇は、磯良さんがいっとう好きだった。ずっとお傍にいたかった。」
「安曇、忘れるな。金を貯めてきっとお前に逢いに行く。」
「磯良さん。」
それはいつと、約束できないのが辛かった。
ただ時間の許す限り、抱き合っていた。
(´;ω;`) 安曇:「磯良さん……」
(´・ω・`) 磯良:「安曇、待ってるんだよ。」
いつも赤子のむつきを洗う洗い場まで来ると、喰いしばった口からひゅっと嗚咽が漏れた。
誰もいない所と、磯良の前でしか安曇は泣いたことがない。
武家の子は、決して人前では泣かぬものと幼い頃より自然に身についていた。
「父上……。どうして、わたしをお連れ下さらなかったのです。」
「どうして安曇を一人、母さまの元に置いてゆかれたのです……。安曇は……もう、どうしていいかわからなくなりました。」
水面を眺め悲嘆にくれていると、ひとつの花蕾が流れてきた。
「花……?紅色のさ……くら……?」
早くに咲く緋寒桜の木は遠くの山に有って、安曇は磯良の話でしか聞いたことがなかった。
もう少し大きくなって、木々の下刈りの手伝いができるようになったら、磯良が連れて行ってやると言ってくれて安曇は楽しみにしていた。
「ああ、本当に紅色なんだ。」
「磯良さんなの……?」
流れてくる花弁を辿り目で追うと、橋の上から水面に向かってはらはらと磯良が紅色の花蕾をいくつも落としていた。
「山に連れて行く約束が守れなかったから、緋寒桜だけでも見せてやろうと思って。」
「持ってきてくれればよかったのに。もう……逢えなくなるのに。」
「そら。逢えば安曇がそうやって泣くじゃないか。俺は安曇が泣くのがいっとう辛いんだ。」
そう聞くと、安曇は涙をぬぐって無理にふふっと笑って見せた。
「磯良さん。安曇は帝都のお店(たな)に奉公することになったんだよ。」
「丁稚奉公か。お店は商いなのか?休みには帰ってこれそうなのか?」
「銀二さんの紹介で、男女郎(おとこえし)になるの。花菱楼と言うところで禿になって下働きをするの。」
「男女郎(おとこえし)……って。お前、何をするところかわかって、そんな所へ行くのか?」
「え……?お風呂を沸かしたり、お洗濯をしたり、安曇にできる下働きのお仕事だそうだけれど……」
何も知らない無垢な丸い瞳が、不安げに磯良を見た。
「安曇は、どこへやられるの……?磯良さん、知っているなら教えて。身体を売るって、どういうことなの……?」
「男女郎(おとこえし)というのは、こんな字を書くんだ。安曇。」
棒切れで書いて見せたら、安曇が息を詰めた。
女郎と言う字は、大人の中に雜じって働いていたらいやでも耳に入ってくる。
「どこそこの飯盛り女郎は、情が怖くていけねぇや。」とか「どこそこの若旦那が格子女郎に入れ込んで、お店をつぶした。」などという話は、安曇にも耳馴染みだった。
「いいかい、安曇。驚かないでお聞きよ。」
「……あい。」
磯良は言うべきかどうか、悩んだが真実を教えてやろうと思った。
どうせ苦界に落ちる身の上なら、きっぱりと諦めておくのが上策だ。下手に希望を持って行って泣く方が哀れだ。
「男女郎(おとこえし)ってのは、男に身体を売る仕事なんだ。」
「磯良さん、それは安曇にもできるお仕事?」
「俺は話でしか知らないが、そういうお仕事があるそうだよ。安曇には辛いことかもしれない。」
「……辛抱します。安曇が高利でお金を借りてしまったのだもの……。」
どんどんうつむいてしまった安曇は、わからないなりに「身を売る」ことが大変なことというのは理解した。
ごくり…と、安曇が生唾を飲み込んだ。
「お金を使ったのは母さまだけど、借りたのは母さまではなくて安曇なのだもの。どんなところだろうと行くしかないの。」
「安曇……。」
どうにもたまらず、磯良は細い安曇の身体を折れよとばかりに、抱きしめた。
血の出るほど唇をかんで、磯良は慟哭した。
「可哀想に……安曇。俺がもっと大人で金があったら、お前をそんなところへやらずに済んだのに。力がなくて、俺は悔しいよ。」
「磯良さん。」
「いいかい、安曇。大人になったら俺がきっと迎えに行く。」
「ほんとう……?」
「ああ、げんまんをしてやるから、忘れるなよ。安曇がどんな名前の太夫になっても、俺を忘れていても、きっと迎えに行く。緋寒桜を見せてやるって約束も、まだだったろう?」
忘れないと安曇が胸に縋った。
どうにもたまらず、磯良は安曇の甘い口を音を立てて吸った。
「磯良さん。安曇は、磯良さんがいっとう好きだった。ずっとお傍にいたかった。」
「安曇、忘れるな。金を貯めてきっとお前に逢いに行く。」
「磯良さん。」
それはいつと、約束できないのが辛かった。
ただ時間の許す限り、抱き合っていた。
(´;ω;`) 安曇:「磯良さん……」
(´・ω・`) 磯良:「安曇、待ってるんだよ。」
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