流れる雲の果て……10
振り向かないで去った大二郎が、どんな顔をしているかわかるような気がした。
「大ちゃん……ごめん。ごめんね。」
呆然と座り込んだ美千緒の頬を、静かに涙が伝う。
こんな時に未練がましく、もう忘れたと思っていたかつての恋人の名前を口にするなんて……。
のろのろと、美千緒も衣類を拾って身に着けた。
「ぼくには、人を愛する資格なんて、なかった。大ちゃんがあまりに可愛くて、つい忘れてしまった……。」
泣かせてしまった大二郎を思って、美千緒も鼻の頭を赤くした。
感受性の強い大二郎が、何事もなく今夜の舞台を務められるだろうか。今は、それが心配だった。
*****
大衆演劇の舞台には台本が無い。
そのほとんどは「口立て(くちだて)」という方法で決められる。
座長の醍醐が、大まかなあらすじを決めて芝居の骨子を作り、口頭で作り上げてゆく。台本が無くとも、話は何本も醍醐の頭に入っていた。その時々の客層、時事によって彼らは毎日、新しい舞台を作り上げてゆく。
舞台は血の通った生き物と言われるように、彼らの作り上げる舞台に同じものはない。
「今日は心中もので行く。大筋は「冥途の飛脚」だ。いいな。」
「はい、座長。」
醍醐の一声に、座員の顔がピリリと引きしまる。醍醐は視線を流した。
「おれが忠兵衛、大二郎が梅川。最後の道行、ちゃんと付いて来いよ。」
「はい、お師匠さん。」
*****
それは醍醐の十八番だった。
馴染みの花魁、梅川を身請けする為、飛脚の忠兵衛は決して手を付けてはならない稼業の金に手を付けてしまう。身請けをさせた女郎梅川と、忠兵衛は追手を逃れ二人は手に手を取って落ちてゆく。長い台詞のお芝居の後、雪の中で舞踏となり、心中の後、幕が下りる手はずになっている。
最期の場面は一面の銀世界だった。現実と虚構がないまぜになった舞台を、観客は息を詰めて見守っていた。
愛する女と一緒になりたかったばかりに、手を付けてはならない店の金に手を付けてしまった忠兵衛。嘘を隠すために嘘を重ね、とうとう二人は追手に追われ雪野原へと逃げてくる。逃げる場所は、どこにもなかった。
着崩れた花魁の衣装は、紅い長じゅばんに羽織った打掛が脱げて、雪の中でまるで血を流しているように見える。
身に罪あれば、覚悟の上、殺さるるは是非もなし。
御回向頼み奉る、親の歎が目にかかり。
未来の障これ一つ、面を包んで下され、お情なり
「忠兵衛さま。」
「梅川。」
「許しておくれ。わたしの短慮で、こんなことになってしまった。もう、そこまで追っ手が来たようだ。おまえ、わたしと死んでくれるかい?」
「……あい。主さん。どこまでも、お供いたしんす。」
細い鶴のような首を伸ばして、女は男の手がかかるのを待っていた。男の震える指が、恋しい女の首に巻きつき力が込められた。
「許せっ!」
胸元に手を合わせ女は念仏を唱えた。
「……南無……阿弥陀……仏……」
藪椿の花がぽとりと落ちるように、遊女の首は男の胸にがくりとうなだれて、雪の中へと散った。
儚くなった女を抱きしめて男は許しを乞い男泣きに泣き慟哭する。やがて懐から匕首を取り出すと、自分も喉を突いて後を追った。
雪の中に重なる二人。静かに雪が舞い落ちる。
「愛おしいわたしの梅川。今生で結ばれないさだめなら、彼岸できっと……添い遂げようなぁ。」
伸ばされた血まみれの指が、恋しい女の指を探した。
物言わぬ女の細い指を抱きしめて、男も共に彼岸へと旅だった。
「三途の川の渡しで、待っていて……おくれよ。梅川……。」
客席のご婦人方は、滂沱の涙にくれていた。
降りしきる雪の中、許されない恋をした二人は道行きを幻想的に舞った。
時折り、舞う雪に足を取られながらも、女は恋しい男だけを見つめ縋っていた。
ひたと醍醐に視線を合わせて、大二郎は踊る。決して標(しるべ)を見失わないように。
手に入れた恋人と墮ちて行く先が、たとえ牛頭馬頭の待つ恐ろしい地獄なのだとしても、この手を離したくはない。
どこまでも。
どこまでも……。
日々が芸の肥やしになる大二郎くんです。
色々、悩ましいねぇ……(´・ω・`)
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