如月奏の憂鬱・番外編 【父の声】
浅い息が吐けるうちに、何とか形にしておこうと如月奏一郎は小さな鋏を握った。
肺病の熱のせいで身体がだるく、ほんの少し座位でいるのにも骨が折れた。
厚紙を筒にして、遺書の書き損じの和紙を丸く切ると切れ込みを入れて、飯粒で筒の上に貼り付けるのだ。
本当は、パラフィン紙が良かったのだが、望むべくもなかった。
寝台周りで自由になるものと言えば、そのぐらいしかないのだから・・・。
目打ちで小さな穴を開けて、タコ糸を通す。
玉結びを作るのに、思うままにならない指先が震え、何十分もかかりため息を吐いた。
こんなときは、筋肉の落ちた細い腕が、悲しくなるばかりだ。
ぜいぜいと鳴る胸のラッセル(雑音)が、煩わしかった。
息を止めて、小さな穴にタコ糸を通す。
「もう、少しだ、奏・・・」
窓下から、幼い子どもの声が聞こえてくる。
「ねぇ、お美代。」
「おとうさまに、ぼくの声は聞こえているかしら。」
御伽草子の茨木の童子の話を、大きな声で朗読していたのは聞こえていたが、返事は奏に届けることは叶わなかった。
病気は密やかに進行して、今は普通に話すのも億劫だった。
もし近くに来たら、抵抗力のない小さな子どもには、感染してしまうかもしれない。
元気な大人なら多少は大丈夫だろうが、肺病は当時死に直結した、不治の病だった。
それに側に呼ぶのを、奏を溺愛する祖父、如月湖西が許すわけはなかった。
奏の可愛らしい声は、病の床に臥し一室に隔離された奏一郎にとって、今や闘病の唯一の慰めとなっている。
日々、薄くなる皮膚に呆然としながら死期を悟る。
浮いた血管はぼこぼこと波打ち。肉の削げ落ちた腿に浮かぶ青い静脈は、まるで自身を絡めとる網の目のようだ。
自分を慕う息子に、一言告げたかった。
どこにいても、いつでも、おとうさまは奏を大切に思っているよ。
自分がいなくなっても、いつも側で見守っているからねと、自分の言葉で伝えたかった。
長い時間をかけて、あり合わせの材料で、何とか不格好な玩具が出来上がった。
寝台から窓のところまで行くのは、まるで長旅を決心する砂漠の隊商にでもなった心持ちがする。
そっと足を床に降ろした所で、既に動悸は激しく息が上がった。
肺を騙すように、ゆっくりと這った。
にじるように立ち上がると、窓枠を掴み下にいる奏の小さな頭に向かって、紙つぶてを投げた。
「ん~?」
見上げた少年の頬が、ぱっと朱に染まる。
「あ!おとうさまだ!」
「しっ!」
唇に指を当てたら、同じ動作をした。
「しっ・・・?」
震う指で玩具を掴むと、一方を窓の下に繰り出した。
ほんの少し、身を乗り出し息を整えた。
「奏。」
ゆらゆらと降りてきた小さな紙の筒から、弾んだ息子の声が響く。
「申し、申し。おとうさま。」
「おとうさまが、作ったの?」
「・・・いつもね、本を読む可愛い声、聞こえているよ。お歌もね。」
「ありがとね。」
下から見上げる薔薇色の頬の美しい少年は、じっと糸電話を握りしめて父の顔を見ていた。
耳に当てた紙の筒から聞こえる、優しい父の声。
「奏。覚えておいで。」
言わなくてはいけないことは多かった。
伝えたいことは、山ほどあった。
「これから先起こる奏の悲しいことは、みんなお父さまが貰ってあげる。」
「きっと、貰ってあげる。」
息子は不思議そうな顔をして、小首をかしげた。
「悲しいこと・・・?」
今は、理解できなくても、息子に伝えたかった。
いつか寂寥感に耐えられないようなことに、この先きっと遭遇する。
守るべき父親の両腕は、そのときもうこの世にないだろう。
父はふらつく足を踏みしめて、言葉を振り絞った。
「奏、生きたいように・・・生きなさい。」
「いいね・・・。自分のために、生きなさい。」
眼下に見える息子が訳も分からず、求められるままに頷き、ひらと求めるように手を振った。
奏は、ただ最愛の父親の声が耳元に聞こえるのが嬉しくて、紙筒をずっと耳に当てたままだ。
父は滲んだ眼に、息子の姿を焼き付けた。
奏は、それがどんなに今の奏一郎に酷なことかも知らないで、じっと大きな丸い目を父に向け父の言葉を待っていた。
「おとうさまはね・・・」
「・・・誰よりもね・・・」
「おまえを、大切に思っているよ・・・」
言葉は奏の耳に刻み付けられるように伝えられた。
奏の双眸が光っているのが見える。
ふっと、意識を手放しかけて父は窓枠に縋った。
喉元をすえた血が上り、発作が起きた。
「あ・・・」
大切な糸電話が、弧を描いて指をすり抜け赤黒く血痰のついた和紙の血が、奏の絹のシャツの袖口に付いた。
窓枠から見えなくなった父の姿に異変を感じ、奏は叫んだ。
「おとうさまぁっ!」
「おとうさまぁっ!」
「ああぁあんっ・・・!おとうさまぁっ・・・」
洗濯物を取り込んでいた美代が、異変に気付き飛んできた。
「奏さま、どうしたんです?何が・・・」
奏の手にある糸電話の血に、美代は納得して奏一郎の元へと駆けた。
ふと振り向いて、告げた。
「いいですか?糸電話のことは大旦那様にお話してはいけませんよ。」
「しっ?」
人差し指を唇に当てて、頬の濡れた奏が聞いた。
若い教育係は、全てを知っていて奏一郎の力になるつもりだったが、それも近い将来叶わなくなる。
それから程なくして、父は看取りの者もなく、一人で彼岸へと旅立った。
如月奏、七歳の初夏。
あの日以来、父の声はずっと耳に刻まれて残っていた。
その時はまだ、父と同じ声を持つ青年に会う未来の予想も付かなかった。
たった一つの愛された記憶。
背徳の閨房で、少年の薄い胸を皺だらけの指が這うときも、縋るように思い出していた。
ただ一人、闇に飮まれてゆくのが怖かった。
目尻を伝う涙を、祖父が吸う・・・
「どうしたね?この国の全てをやろうというのに、奏一郎。」
『それは、父上の名です。おじい様。』
終わりのない肉の地獄に、ゆらゆらと救いの糸電話が降りてくる。
力なく掴もうとして、幻だったと知る。
・・・・
『おとうさまはね・・・』
『・・・誰よりもね・・・』
『おまえを、大切に思っているよ・・・』
「父上・・・」
虚しく父を呼ぶ奏の白い喉が、戦慄に震えた。
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お読みいただきありがとうございました。
このお話は、いれられなかった奏の父とのエピソードを膨らませたものです。
こうしてみると、結構過酷な運命に翻弄されてます。
可哀想に…(ノд-。)←書いといて。
(´・ω・`) 「父上・・・」
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